2007年10月31日水曜日

土曜の午後 1 土曜日の午後

◆ 連休のど真ん中の土曜日だと言うのに、なんできょうは会社に出て来なきゃならんのだ。もちろん、土曜日はうちの会社の出勤日ではない。いつもなら、よっぽど仕事が忙しい時以外は、土曜日に会社に出て来るようなことはない。それがきょう、ここに出て来なければならなくなったのは、長い連休の合い間に顧客から急な電話が入るかも知れないから、土曜日の午前中だけでいいから電話番をしていてくれ、と言う所長からの頼みをしぶしぶ引き受けたからだ。と言うことで、営業所の窓はすべてブラインドを掛けて、表の入り口のドアもロックをして、おれはソファに腰掛けて雑誌を読みながら、のんびりと時を過ごしていた。
やっと十二時になった。結局、電話は一度も鳴らなかったし、もちろん、入り口のドアをたたく人もいなかった。連休の真っ最中だから、当然の事だ。さて、所長からは、昼の十二時までいてくれればいいと言われているから、これで帰るとするか。おれは、営業所の表のドアと窓の戸締りを確かめると、電話を留守番モードにして、電灯のスイッチを切って、裏口のドアを出て、裏の駐車場に停めてある自分の車に乗ると、さっさと家に帰って行った。

まったく、これで貴重な一日がつぶれてしまったようなものだ。家に帰るとおれは、冷蔵庫から食べ物を取り出して、レンジで温めて食べた。さて、これからどうしたものか。今から遊びに行くような所はあまりないし、このまま家でテレビでも見ているか。と、テレビをつけようとした時、大変な事に気がついた。携帯電話を営業所に置き忘れて来てしまったのだ。何という事だ。まだ、連休の後半が残っていると言うのに。やむをえん。今からまた、営業所に取りに行くしかない。さっき、帰って来たばかりだと言うのに。まったく、ついてない。おれは急いで車に乗ると、再び営業所に向かった。

◆ 営業所に戻って来たのは、午後の二時ごろだった。おれは、机の上に置き忘れてあった携帯電話を取ると、念のため、家に戻っていた間に留守番電話がなかったかどうかを確かめてから、裏口を出ようとした。
すると、ちょうどその時、何者かが表のドアをノックする音が聞こえて来た。なんと、何から何まできょうはうまく行かない。忘れ物を取りに戻って来た時に、人が訪ねて来るとは。しかもきょうは、営業所は休みの日だと言うのに。しかたがない。おれは表の入り口の手前まで行くと、ブラインドのすき間から外をのぞいてみた。ところが、ドアの外には誰も立っているようすがない。おかしい。さっきのは空耳だったのか。どうもよく分からない。おれは再び裏口に向かった。するとまた、表の入り口の方からノックする音が聞こえて来た。何だかおかしい。でも、はっきりと聞こえた。再びおれは、表のドアの前まで行くと、ブラインドのすき間から外をのぞいてみたが、やはり、誰も外にはいない。

いったい、どうなっているんだ。おれは、入り口のドアのロックをそっと外すと、ゆっくりと取っ手を回して、ドアを開けようとした。ところが、どれだけ押してもドアが開かない。おかしい。どうしたんだ。こんな事、今までなかったぞ。おれはもう一度、力いっぱいドアを押してみた。ほんの少し、ドアが開きかけたが、すぐまた閉まってしまった。これは、ドアが壊れているのではない。何者かが外から、ドアを押し返しているのだ。透明人間か、こいつは。
だんだん、いらだって来たおれは、自分の背中をドアに押し当てて、後ろ向きになって、全身の力を込めて思いっ切りドアを押した。その瞬間、ドアが勢いよく開いて、おれは勢い余って入り口の外でひっくり返ってしまった。その時、
「きゃっ」
と言う叫び声が聞こえた。見ると、おれのすぐ横で、どこかの女の人がおれと同じようにひっくり返っている。いったい、何者だ?こいつは。

おれが急いで起き上がると同時に、女の人も同じように急いで起き上がった。
「だいじょうぶですか?」
と、おれがあわてて声をかけると同時に、女の人も、
「あ、だいじょうぶですか?」
と、おれに向かって声をかけた。二十歳前後の若い人だ。透明人間じゃなかった。
「どうも、失礼しました。頭を打っていませんか、もしかして?」
と、おれが聞くと、
「いいえ。全然、だいじょうぶです。ただ、ちょっとお尻が痛くて・・・。」
と、女の人は笑って答えた。確かに、倒れてからすぐに起き上がれたのだから、本人の言う通り、頭は打っていないのだろう。どうやら、救急車を呼ぶ必要はないようなので、おれはひとまずほっとした。
「そうですか。いや、びっくりしました。ところで、何かご用ですか?」
と、おれが聞くと、
「え?何でしょうか?」
と、女の人が聞き返した。あれ、何か変だぞ、この人。やっぱりさっき、頭を打ったのか。いや、そもそも、ドアを開ける前から何か変だったが。
「あのー。さっき、ドアをノックされたんじゃあなかったですか?」
「ええ。さっき、しましたけど。」
「うちの営業所に何か用があって、来られたんじゃないんですか?」
「え?えーと。何でしたっけ。ちょ、ちょっと待ってください。」

こ、これは。やっぱり、救急車を呼ばないといけないのか。とんだ災難になってしまったな、きょうは。おれは周囲を見回してから、急いで女の人を営業所の中に入れた。さっきから、営業所の前の道は、誰も人が通っていない。なんとか、近所の噂にはならずに済みそうだ。
「ちょっと、痛いところがあったら言ってください。」
そう言っておれは、女の人の頭のあちこちを指で押して行った。女の人はずーっと、何も言わずに黙っていた。どこも打ってはいないようだ。
「どうぞ、こちらのソファにお掛けください。」
と、おれが言うか言わないうちに、女の人はさっさとソファに腰掛けた。
「ところで、何のご用で来られたんでしたか?」
おれが改めて、女の人にそう聞くと、
「あっ、あのー。採用の面接を受けたいんですけど。」
と、いきなり言ってくるので、おれは驚いた。
「うちの会社で働きたいと言うことですか?」
「えっ?まー、そう言うことなんですか、ね?」
「電話で前もって連絡されましたか?」
「あ、いや。全然してませんが。」
「それでは、履歴書は持って来られましたか?」
「え?何ですか、それ?」
どうも話がつながらない。
「ところで、うちの会社の求人の記事は、どこの就職情報誌でご覧になりましたか?」
「いや、記事なんか読んでません。たまたま、ここの前を通りかかっただけです。」
「はあ?」
おれが呆れてそう言うと、急に女の人は怒ったような顔になって、
「とにかく、ここの会社の事を説明してくださいよ。」
と言い出すので、
「あ、分かりました。それでは、向かいの喫茶店でゆっくりと話しましょうか。」
おれがそう言うと、女の人は急に青ざめた顔になって、
「あ、それはちょっと、まずい・・・。」
とか言い出して、そこで黙ってしまった。
「お金はこちらで払いますよ、もちろん。」
「あ、そう言うことじゃなくて、今、行っても、あそこ、閉まってますよ、たぶん・・・。」
え、そんな事はない。きょうはちゃんとやっているはずだ。おれが、確かめに外へ出て行こうとすると、
「あ、いいです。いいです。何も飲みませんから、ここで話を聞かせてください。」
と、女の人があわてて言うので、
「そうですか・・・。」
と、おれは答えると、営業所の冷蔵庫から缶コーヒーを二つ取り出して来て、一つを女の人に渡した。
「えっ、これ、いただいていいんですか。どうも、ありがとうございます。」
女の人はそう言うと、ごっくん、ごっくんとおいしそうに飲み始めた。何だか、おもしろそうな人だな。
そんな感じで話がはずんで、どんどん時間が過ぎて行った。そして、三時近くになった時、女の人は時計を見て、はっと青ざめると急に立ち上がった。
「すみません。もう、時間なので帰らないと。どうも、いろいろとありがとうございました。」
と、あわてて言うと、そのまま大急ぎで入り口を飛び出して行った。バタンというものすごい音がして、ドアが閉まった。まるで一瞬、突風が吹き荒れたかのようだ。
あれれ、いったい、どうしたんだろう。おれはあっけにとられた。それから、しばらくして、あの女の人の名前も住所も電話番号も、まだ何も聞いていなかった事にやっと気がついた。ま、いいか。どうせ、きょうはもともと休みの日なんだし、それに、あの女の人も面接の予約をして来たわけではなかったみたいだ。ところで、向かいの喫茶店が開いているのかどうかが、どうも気になるな。

おれは立ち上がると、入り口のドアを開けようとした。ところが、どれだけ押しても開かない。さっきの女の人の閉め方が乱暴過ぎて、ドアが壊れたのか。いやいや、そうじゃないぞ。このドア、押すとほんの少し開きかけるが、すぐまた閉まってしまう。まるで誰かが、外から押し返しているみたいだ。と言うか、これはさっき、あの女の人がここへやって来て、おれがこのドアを開けようとした時と同じじゃないか。と言うことは、こうすれば開くのか?おれはさっき、ここのドアが開いた時にやったのと同じように、自分の背中をドアに押し当て、後ろ向きになって、ほんの少し、ドアを背中で押してみた。するとドアは、何事もなかったかのようにすんなりと開いた。と同時に、営業所の前の道を通り過ぎて行く人たちの声が、突然、がやがやと聞えて来た。さっきまで、まったく人通りがなかったのに、急に人がよく通るようになったな。ま、それはいいか。おれは、営業所の前の道の向かい側にある喫茶店をのぞいてみたが、大勢の客でにぎわっている。やっぱり、きょうはちゃんとやっている。なんで、閉まっているなんてウソをついたんだろう、あの女は。

何だかおかしな出来事だったが、その日の事は不思議におれの心の中に残った。おれは、あの人がまたいつか、ここの営業所を訪ねて来るのではないかと思っていたが、それ以後、あの人が再びやって来ることはなかった。と言うか、おれが土曜日の午後二時過ぎにひとりでここの営業所にいる、と言う事が、それから後は一度もなかった、と言うことだが。
その日の事があってからしばらくたって、おれは、別の営業所に移った。

2006.09.03 記事公開