2007年10月31日水曜日

土曜の午後 1 土曜日の午後

◆ 連休のど真ん中の土曜日だと言うのに、なんできょうは会社に出て来なきゃならんのだ。もちろん、土曜日はうちの会社の出勤日ではない。いつもなら、よっぽど仕事が忙しい時以外は、土曜日に会社に出て来るようなことはない。それがきょう、ここに出て来なければならなくなったのは、長い連休の合い間に顧客から急な電話が入るかも知れないから、土曜日の午前中だけでいいから電話番をしていてくれ、と言う所長からの頼みをしぶしぶ引き受けたからだ。と言うことで、営業所の窓はすべてブラインドを掛けて、表の入り口のドアもロックをして、おれはソファに腰掛けて雑誌を読みながら、のんびりと時を過ごしていた。
やっと十二時になった。結局、電話は一度も鳴らなかったし、もちろん、入り口のドアをたたく人もいなかった。連休の真っ最中だから、当然の事だ。さて、所長からは、昼の十二時までいてくれればいいと言われているから、これで帰るとするか。おれは、営業所の表のドアと窓の戸締りを確かめると、電話を留守番モードにして、電灯のスイッチを切って、裏口のドアを出て、裏の駐車場に停めてある自分の車に乗ると、さっさと家に帰って行った。

まったく、これで貴重な一日がつぶれてしまったようなものだ。家に帰るとおれは、冷蔵庫から食べ物を取り出して、レンジで温めて食べた。さて、これからどうしたものか。今から遊びに行くような所はあまりないし、このまま家でテレビでも見ているか。と、テレビをつけようとした時、大変な事に気がついた。携帯電話を営業所に置き忘れて来てしまったのだ。何という事だ。まだ、連休の後半が残っていると言うのに。やむをえん。今からまた、営業所に取りに行くしかない。さっき、帰って来たばかりだと言うのに。まったく、ついてない。おれは急いで車に乗ると、再び営業所に向かった。

◆ 営業所に戻って来たのは、午後の二時ごろだった。おれは、机の上に置き忘れてあった携帯電話を取ると、念のため、家に戻っていた間に留守番電話がなかったかどうかを確かめてから、裏口を出ようとした。
すると、ちょうどその時、何者かが表のドアをノックする音が聞こえて来た。なんと、何から何まできょうはうまく行かない。忘れ物を取りに戻って来た時に、人が訪ねて来るとは。しかもきょうは、営業所は休みの日だと言うのに。しかたがない。おれは表の入り口の手前まで行くと、ブラインドのすき間から外をのぞいてみた。ところが、ドアの外には誰も立っているようすがない。おかしい。さっきのは空耳だったのか。どうもよく分からない。おれは再び裏口に向かった。するとまた、表の入り口の方からノックする音が聞こえて来た。何だかおかしい。でも、はっきりと聞こえた。再びおれは、表のドアの前まで行くと、ブラインドのすき間から外をのぞいてみたが、やはり、誰も外にはいない。

いったい、どうなっているんだ。おれは、入り口のドアのロックをそっと外すと、ゆっくりと取っ手を回して、ドアを開けようとした。ところが、どれだけ押してもドアが開かない。おかしい。どうしたんだ。こんな事、今までなかったぞ。おれはもう一度、力いっぱいドアを押してみた。ほんの少し、ドアが開きかけたが、すぐまた閉まってしまった。これは、ドアが壊れているのではない。何者かが外から、ドアを押し返しているのだ。透明人間か、こいつは。
だんだん、いらだって来たおれは、自分の背中をドアに押し当てて、後ろ向きになって、全身の力を込めて思いっ切りドアを押した。その瞬間、ドアが勢いよく開いて、おれは勢い余って入り口の外でひっくり返ってしまった。その時、
「きゃっ」
と言う叫び声が聞こえた。見ると、おれのすぐ横で、どこかの女の人がおれと同じようにひっくり返っている。いったい、何者だ?こいつは。

おれが急いで起き上がると同時に、女の人も同じように急いで起き上がった。
「だいじょうぶですか?」
と、おれがあわてて声をかけると同時に、女の人も、
「あ、だいじょうぶですか?」
と、おれに向かって声をかけた。二十歳前後の若い人だ。透明人間じゃなかった。
「どうも、失礼しました。頭を打っていませんか、もしかして?」
と、おれが聞くと、
「いいえ。全然、だいじょうぶです。ただ、ちょっとお尻が痛くて・・・。」
と、女の人は笑って答えた。確かに、倒れてからすぐに起き上がれたのだから、本人の言う通り、頭は打っていないのだろう。どうやら、救急車を呼ぶ必要はないようなので、おれはひとまずほっとした。
「そうですか。いや、びっくりしました。ところで、何かご用ですか?」
と、おれが聞くと、
「え?何でしょうか?」
と、女の人が聞き返した。あれ、何か変だぞ、この人。やっぱりさっき、頭を打ったのか。いや、そもそも、ドアを開ける前から何か変だったが。
「あのー。さっき、ドアをノックされたんじゃあなかったですか?」
「ええ。さっき、しましたけど。」
「うちの営業所に何か用があって、来られたんじゃないんですか?」
「え?えーと。何でしたっけ。ちょ、ちょっと待ってください。」

こ、これは。やっぱり、救急車を呼ばないといけないのか。とんだ災難になってしまったな、きょうは。おれは周囲を見回してから、急いで女の人を営業所の中に入れた。さっきから、営業所の前の道は、誰も人が通っていない。なんとか、近所の噂にはならずに済みそうだ。
「ちょっと、痛いところがあったら言ってください。」
そう言っておれは、女の人の頭のあちこちを指で押して行った。女の人はずーっと、何も言わずに黙っていた。どこも打ってはいないようだ。
「どうぞ、こちらのソファにお掛けください。」
と、おれが言うか言わないうちに、女の人はさっさとソファに腰掛けた。
「ところで、何のご用で来られたんでしたか?」
おれが改めて、女の人にそう聞くと、
「あっ、あのー。採用の面接を受けたいんですけど。」
と、いきなり言ってくるので、おれは驚いた。
「うちの会社で働きたいと言うことですか?」
「えっ?まー、そう言うことなんですか、ね?」
「電話で前もって連絡されましたか?」
「あ、いや。全然してませんが。」
「それでは、履歴書は持って来られましたか?」
「え?何ですか、それ?」
どうも話がつながらない。
「ところで、うちの会社の求人の記事は、どこの就職情報誌でご覧になりましたか?」
「いや、記事なんか読んでません。たまたま、ここの前を通りかかっただけです。」
「はあ?」
おれが呆れてそう言うと、急に女の人は怒ったような顔になって、
「とにかく、ここの会社の事を説明してくださいよ。」
と言い出すので、
「あ、分かりました。それでは、向かいの喫茶店でゆっくりと話しましょうか。」
おれがそう言うと、女の人は急に青ざめた顔になって、
「あ、それはちょっと、まずい・・・。」
とか言い出して、そこで黙ってしまった。
「お金はこちらで払いますよ、もちろん。」
「あ、そう言うことじゃなくて、今、行っても、あそこ、閉まってますよ、たぶん・・・。」
え、そんな事はない。きょうはちゃんとやっているはずだ。おれが、確かめに外へ出て行こうとすると、
「あ、いいです。いいです。何も飲みませんから、ここで話を聞かせてください。」
と、女の人があわてて言うので、
「そうですか・・・。」
と、おれは答えると、営業所の冷蔵庫から缶コーヒーを二つ取り出して来て、一つを女の人に渡した。
「えっ、これ、いただいていいんですか。どうも、ありがとうございます。」
女の人はそう言うと、ごっくん、ごっくんとおいしそうに飲み始めた。何だか、おもしろそうな人だな。
そんな感じで話がはずんで、どんどん時間が過ぎて行った。そして、三時近くになった時、女の人は時計を見て、はっと青ざめると急に立ち上がった。
「すみません。もう、時間なので帰らないと。どうも、いろいろとありがとうございました。」
と、あわてて言うと、そのまま大急ぎで入り口を飛び出して行った。バタンというものすごい音がして、ドアが閉まった。まるで一瞬、突風が吹き荒れたかのようだ。
あれれ、いったい、どうしたんだろう。おれはあっけにとられた。それから、しばらくして、あの女の人の名前も住所も電話番号も、まだ何も聞いていなかった事にやっと気がついた。ま、いいか。どうせ、きょうはもともと休みの日なんだし、それに、あの女の人も面接の予約をして来たわけではなかったみたいだ。ところで、向かいの喫茶店が開いているのかどうかが、どうも気になるな。

おれは立ち上がると、入り口のドアを開けようとした。ところが、どれだけ押しても開かない。さっきの女の人の閉め方が乱暴過ぎて、ドアが壊れたのか。いやいや、そうじゃないぞ。このドア、押すとほんの少し開きかけるが、すぐまた閉まってしまう。まるで誰かが、外から押し返しているみたいだ。と言うか、これはさっき、あの女の人がここへやって来て、おれがこのドアを開けようとした時と同じじゃないか。と言うことは、こうすれば開くのか?おれはさっき、ここのドアが開いた時にやったのと同じように、自分の背中をドアに押し当て、後ろ向きになって、ほんの少し、ドアを背中で押してみた。するとドアは、何事もなかったかのようにすんなりと開いた。と同時に、営業所の前の道を通り過ぎて行く人たちの声が、突然、がやがやと聞えて来た。さっきまで、まったく人通りがなかったのに、急に人がよく通るようになったな。ま、それはいいか。おれは、営業所の前の道の向かい側にある喫茶店をのぞいてみたが、大勢の客でにぎわっている。やっぱり、きょうはちゃんとやっている。なんで、閉まっているなんてウソをついたんだろう、あの女は。

何だかおかしな出来事だったが、その日の事は不思議におれの心の中に残った。おれは、あの人がまたいつか、ここの営業所を訪ねて来るのではないかと思っていたが、それ以後、あの人が再びやって来ることはなかった。と言うか、おれが土曜日の午後二時過ぎにひとりでここの営業所にいる、と言う事が、それから後は一度もなかった、と言うことだが。
その日の事があってからしばらくたって、おれは、別の営業所に移った。

2006.09.03 記事公開

土曜の午後 2 謎の正体

◆ 新しい営業所は、今までいた所からそれほど離れてはいなかった。と言うか、今までいた営業所が、建物が古くなったので、閉鎖する事になって、所員たちは近辺の営業所に移されたのだ。 新しい営業所に移ってからしばらくたった、金曜日の夕方。そこの所長が突然、
「あした、出勤する者はいないか?」
と聞いたので、所員たちが顔を見合わせた。
「何かやる事がありましたか、あした?」
と、一人が聞いた。
「いや、そうじゃない。あしたは月末だから、ひょっとしたら、取引先から電話が入るかも知れん。」
ふーん、とみんなは黙り込んでしまった。ここの営業所の人たちは、休日出勤はあまりしないみたいだ。と思っていると、いつの間にか所長がおれの席の横に来ていた。
「じゃあ、きみ、頼むな。」
と、ぽんと肩をたたかれた。なんでいつも、こうなるんだ。
「昼の十二時になったら、帰っていいからな。」
所長が言い終わらないうちに、総務係が営業所の裏口の鍵をおれのところに持って来た。

◆ と言うことで、次の日は午前中、営業所の窓にブラインドを掛けて、表の入り口のドアをロックして、おれはひとりでずーっと、中で電話番をしていたが、やはり、電話は一度もかかって来なかった。
十二時近くになって、そろそろ帰る用意をしようかと思った時、前の営業所で連休の合い間の土曜日に電話番に出て来た時に、うっかり携帯電話を置いたまま家に帰ってしまった事を思い出した。それでおれは、何も忘れ物がないかどうかを何度も確かめてから、時計が十二時になったのを見て、戸締りをして営業所を出た。
外は晴れていて、涼しい風が吹いていた。その時、やっと、前にいた営業所に、土曜日の午後二時過ぎにやって来た、あの若い女の人の事を思い出した。そう言えば、土曜日に一人で営業所に出て来たのは、あの日以来のことだ。と言うことは、ひょっとしたらきょう、午後二時を過ぎたらあの人が、ここの営業所にやって来るんじゃないのか・・・。そんな予感が急にして来た。

そこでおれは、近くの喫茶店に行って昼食を済ませると、急いで営業所に戻って来た。そして、入り口のすぐ近くのソファに腰掛けると、入り口のドアをノックする音が聞こえて来るのをずーっと待ち続けた。
二時を少し過ぎた時、トントン、トントン、と入り口のドアをノックする音がかすかに聞えた。おれは静かに立ち上がると、そっと歩いてドアの横の窓のブラインドのすき間から外をのぞいて見たが、外には誰もいなかった。あの時と同じだ。と言うことは、あの時と同じように、おれが後ろ向きになってこの入り口のドアを開けたら、あの時と同じあの女の人がドアの外にいると言うことなのか。いや、まず、普通に押してもドアが開かない事を確かめるのが先だが。
おれは、入り口のドアを開けようとしてロックに手を掛けたが、その時、ふと別の事を思いついた。そうだ。裏口からそっと出て行って、表に本当に誰もいないのかどうか、まず確かめてみよう。とっさにそう思いついたおれは、そっと歩いて営業所の裏口まで行くと、裏口のドアを開けようとした。ところが、開かない・・・。ロックは外してあるのに、なんでこうなるんだ。おれは、力いっぱいドアを押したが、ドアはほんの少し開きかけると、すぐまた閉まってしまう。まるで誰かが、外からドアを押し返しているかのようだ。いや、待てよ。これって、前の営業所にあの人がやって来た時と同じじゃないのか。と言うことは、もしかして。
そうかと思ったおれは、自分の背中をドアに押し当て、後ろ向きになって、背中でそっとドアを押してみた。すると裏口のドアは、何事もなかったかのようにすんなりと開いた。裏口を出たおれは、周りに誰も人がいないのを確かめると、そっとドアを閉め、身をかがめて、忍び足で営業所の表の方に回って行った。

あっ。と、おれは驚いた。あの日にやって来たあの女の人が、営業所の入り口の前を行ったり来たりしながらきょろきょろしている。きょうは、前の時よりも少し派手な服を着ているな。ところでどうして、さっき、中から窓の外を見た時には、誰も見えなかったのだろうか。まあ、それはいいとして、これからあの人がどうするのか、ちょっと見ていようか。
そう思って、女の人のようすを建物の陰からこっそりと見ているうちに、だんだんおれは、違う事を考えるようになって行った。この後、あの人はどこに行くつもりなのだろうか。前の営業所にやって来た時は、三時近くになった時、あわてて飛び出して行ったが。と言うか、そもそもどこからやって来たのだ、あの人は。どうも気になる・・・。

◆ 女の人はだいぶ長い間、入り口の前にいたが、とうとうあきらめて帰って行った。あの後をつけて行けば、あの人がどこからやって来たのか、分かるかも知れない。帰って行く後ろ姿をそっと見ていると、女の人は最初の四つ角を右へ曲がって行った。どこへ行くのだろう。おれは、通りに誰も人がいないのを確かめると、急いで後を追った。
四つ角の所まで来てみると、ちょうど女の人は、通りにある衣料品店に入って行くところだった。あんな所に何の用があるんだろうか。もしかして、あそこがあの人の家なのか。いや、そんな事はないだろう。それにしても、どうしてさっきからずっと、通りに誰も人がいないのだ。これでは、おれが後をつけている事が、そのうちあの人に分かってしまうじゃないか。
おれは身をかがめて、忍び足で店の前まで行くと、ガラス窓からそっと店の中をのぞいて見た。すると女の人は、店に並べてある服を次から次へと着替えて行っては、鏡で自分の姿を見ているところだった。さっき、営業所にやって来た時に着ていた服も、もしかしたら、ここの店に置いてあった物なのだろうか?それにしても、ずっとあんな事を続けていたら、そのうち店の人が出て来るはずなのに、どうなっているんだろう。あ、ひょっとして。
おれはその時、少し分かりかけて来た気がした。初めてあの人と会った時、営業所の前の通りには、誰も人がいなかった。きょうも、おれがさっき営業所の裏口を出てからずっと、通りには誰もいない。いったい、ほかの人たちはどこへ行ってしまっているんだ。

いつまでも女の人が店の中で服を着替え続けているので、だんだんおれは、じっと待っているのが苦痛になって来た。今、何時だろう。と思って、時計を見ると、三時一分前だ。あ、もしかしたらそろそろ、どこかへあわてて飛び出して行くんじゃないのかな。と思った直後、女の人は大あわてで店を飛び出すと、すぐ隣の倉庫の中に駆け込んで行った。ちょうど三時になった。何しに行ったんだ、あんな所へ。おれは急いで倉庫に行って、中をのぞいて見た。中は薄暗くて、誰も人がいる気配はない。おかしい。さっき、確かにこの中に入って行ったはずなのに。
そっとおれは、倉庫の中に入って行った。だんだん目が慣れて来ると、奥の方に店で使うマネキン人形がいくつか並べて立ててあったが、どれも皆、素っ裸のままになっている。倉庫の中は、がらんとしていて、どこにも女の人はいない。どういう事なんだ、これは。やっぱり、透明人間だったのか、あの女は。何だかよく分からない。しばらく呆然としたまま立っていたおれは、やっとあきらめると、家に帰ろうと、営業所の裏の駐車場に向かって、とぼとぼと歩き始めた。三時を過ぎても、通りにはまったく人の姿がなかった。

◆ 駐車場にたどり着いたおれは、車のキーを取り出そうとしてポケットの中に手を入れたが、あるはずのキーが無い。そうだった。営業所の机の上に置いたままにしてあったんだ。どちらにしても、営業所の裏口のドアに鍵を掛けてから帰らないといけなかった。
おれは、営業所の裏口を開けようとした。ところが、ドアが開かない。もちろん、ロックなんかしてない。ほんの一時間前に、ここを開けて出て来たばかりなのに。おれはドアの取っ手を回して、思いっ切り引っ張ってみたが、ドアはほんの少し開きかけるとすぐまた閉まってしまう。まるで誰かが、中からドアを引っ張っているかのようだ。
待てよ。これって、さっき、ここから出て来た時とちょうど逆になっているんじゃないのか。さっきは、中からドアを押すと押し返して来たが、今度は、外からドアを引くと引き返して来る。と言うことは、どうすれば開くんだ。もしかして、後ろ向きになってドアを引っ張ればいいのか?とっさにそう思いついたおれは、自分の背中をドアに向け、後ろ向きになって取っ手を回して少しドアを引いてみた。するとドアは、何事もなかったかのようにすんなりと開いた。

いつの間にこんなふうになってしまったんだ、ここのドアは。まあ、いいか。とにかく、開いたんだから。おれは机の上に置いてあった車のキーを取り、営業所の戸締りを確かめると、再び裏口を出た。すると、いつの間にか通りには、たくさんの人たちが歩いていた。なんで急に、こんなに人が多くなってしまったんだ。さっきまで、誰も外にはいなかったのに。
駐車場に向かって歩きかけたその時、おれは、はっと思った。もしかして、あの女、あの時、倉庫の中でマネキン人形に化けてたんじゃなかったのか。そうだったか。うっかりしていた。あの、倉庫の中に並んでいたマネキンの中に、あの女が混じっていたのだ。なんで、そんな事に気づかなかったんだろうか。そう思ったおれは、急いでさっきの倉庫のある場所に向かった。四つ角を曲がった時、おれはあっと驚いた。ちょうど倉庫の前に車が停まっていて、マネキン人形を積み込んでいるところだった。あれっ、どうなってしまうんだ。おれはあわてて走って行った。が、倉庫の前に着いた時には、人形を載せた車は走り去っていた。倉庫の中をのぞいて見ると、中は空っぽだった。さっきの車が、残っていた人形を全部、積んで行ってしまったのだ。おれは、がっくりと来た。あの人の居場所が、これで、まったく分からなくなってしまったのだ。

2006.09.06 記事公開

土曜の午後 3 新装開店

◆ それから一週間が過ぎて、次の土曜日になった。おれは、前の日までの会社の仕事でひどく疲れていたので、ふとんから起き上がったのは、その日の昼過ぎだった。遅い朝食を取った後、何気なく朝の新聞の折り込みのチラシをめくっていたら、その中に、郊外に新しくできた衣料品店のチラシが入っていた。ぼんやりとそれを見ていたおれは、この新しくできた店が、一週間前の土曜日にあの女の人が入って行った、営業所のすぐ近くのあの店と同じ名前であることに、しばらくして気がついた。あの店は、新しく郊外に移転する事になっていたのだ。だから先週は移転前の引越し作業で、店は営業してなくて、店員もいなかったと言うことだ。
やっと分かって来たぞ。あの女の人はあの時、マネキン人形に化けたままで、トラックに積み込まれて行ったはずだから、と言うことは、この新しい店に今、いるという事だ。もしかして、きょうの午後二時になったら、人形から人間の姿に戻っているんじゃないのか。今まで、あの人を見たのは、二回とも土曜日の午後二時を過ぎてからだったし。そうだ。そうに違いない。こうしてはいられない。今すぐ、出かけなくては。おれはすぐに、車に乗って出かけようかと思ったが、新装開店で駐車場が混み合っているかも知れないので、自転車に乗って行くことにした。

◆ 急いで自転車で、開店したばかりのその店に行ってみると、自転車置き場はがらがらだった。だれも、自転車で来るやつなんかいなかったのか。時計を見ると、二時五分前だ。あの人が化けているはずのマネキン人形がどこにいるのか、急いで捜さないと。もう時間がない。店に入ると、中はものすごい混雑で、しかも客のほとんどが若い女性だ。なんだかいかにも、場違いな感じがする。男の警備員が何人か、店内を見回っている。おれは急いで、あの女の人が化けているはずの人形を捜して回ったが、どのマネキンも同じ顔をしていて、どこにあの人がいるのだか、さっぱり分からない。ああ、もう二時になる。
はっ。と一瞬、店内が暗くなって、非常口の明かりだけになった。停電なのか。と思った直後に、すぐまた明るくなった。ほんの数秒間の出来事だった。時計を見ると、ちょうど今、二時になったところだ。あっ、ひょっとして今、あの人が人形から人間に姿を変えたんじゃないのか。いったい、どこにいるんだ。
しばらく、店内のようすを見ていると、店の一番奥のコーナーに何人かの警備員が集まって来ている。何かあったのか、あそこで。おれは急いで、店の奥まで行ってみた。ひとりの店員が警備員たちと何か、身振り、手振りで話をしている。少しして、この店の店長かと思われる男があわてたようすでやって来た。もしかして、あの女の人が化けていたマネキンは、ここのコーナーにあったのだろうか。きっとさっき、店内が停電になった数秒間の間に、マネキンから人間の姿に変身して、そのままどこかに歩いて行ってしまったのだ。それで、警備員たちがあわてているのに違いない。と言うことは、今、あの人はどこにいるんだ。店から出て、逃げ出して行ったのか。しかし、これだけ店の中が混み合っていて、しかもここは、店の入り口から一番遠い場所だ。人間の姿になっても、マネキンの時と同じ服をそのまま着ているはずだから、途中で警備員に疑われてしまうかも知れない。うーん。いったい、今、どこにいるんだ。店の中のどこかに、隠れているのだろうか。

◆ 何気なくあたりを見回してみると、すぐ近くに喫茶室があった。ところが、中が薄暗い。ちょっと気になって喫茶室の入り口まで行ってみると、
「準備中につき、二時から三時までの間は閉まっています。」
という札が掛かっている。何だ。今、閉まっているのか。それで中が暗くなっているわけか。あ、待てよ。と、そこでおれはふと考えた。二時から三時の間というのは、あの女の人が人間の姿でいられるはずの時間と同じじゃないのか。今まで、二回ともそうだったが。そうか。分かったぞ。今、この中に隠れているんだな、あいつ。
そう思ったおれは、そっと喫茶室のドアを開けようとしたが、開かない。やっぱり本当に閉まっているのか。いや、ちょっと違うぞ。ここのドアは、押すと少し開きかけて、またすぐ閉まってしまう。ロックがしてあるわけじゃない。まるで、何者かが中からドアを押し返しているみたいな感じだ。あ、これはちょうど、あの人がやって来た時の営業所のドアと同じじゃないか。と言うことは。
そこでおれは、自分の背中を喫茶室の入り口のドアにつけて、後ろ向きになって、そのままそっと背中でドアを押してみた。するとドアは、何事もなかったかのようにゆっくりと開いた。

中は薄暗かったが、芳ばしいコーヒーの香りが漂っていた。喫茶室の窓からは、店の外の景色がよく見える。この中のどこかに、あの人がいるはずだが、いったい、どこに隠れているのだろうか。と思った時、奥の方でバタンと音がした。見るとひとりの女の人が、窓の外をどこかに向かって急いで走って行くところだ。あっ、あそこにいた。そうか。この喫茶室は、店の外からも直接出入りできるようになっていたのか。
おれは急いで奥の方にある出口に行った。ふと見ると、出口のすぐ近くのテーブルの上に、飲み終わったばかりのコーヒーカップが置いてある。さっきまで、ここでコーヒーを飲んでいたのか。よっぽどコーヒーが好きなんだな、あの女は。おれは喫茶室の出口から店の外に出ると、あの人の後を追った。外の駐車場には車がずらりと並んでいたが、人の姿はまったくなかった。女の人は、自転車置き場に置いてあった一台の自転車に乗ると、さっそうとどこかに出かけて行った。あ、あの自転車、もしかして、おれが乗って来たやつじゃないのか。おれは急いで自転車置き場に走って行ったが、そこには一台も自転車はなかった。間違いなくあれは、おれの自転車だ。そう言えば、鍵をかけておかなかった。
「おーい。」
おれは走り去って行く自転車に向かって、両手を大きく振りながら大声で叫んだ。自転車に乗っている女の人は、おれの方をちらっと振り返ると、今度は逃げるようにあわてて自転車を飛ばし始めた。くそっ。おれの自転車を盗んで逃げる気だな。おれは自転車の後を走って追っかけて行った。不思議な事に道路には、一台も車が走っていなかった。女の人はどんどん自転車を飛ばして行った。おれは息を切らせながら後を追った。女の人は時々、ちら、ちらと後ろを振り返っては、おれが後を追っているのを確かめながら、自転車を飛ばし続けた。
やがて自転車は、広い公園のサイクリングコースに入って行った。公園の中にも、誰も人はいなかった。もしかしてあの女、おれに合わせて、自転車を漕いでいるのだろうか。走りながらふと、おれは思った。それから、あの女の人が運動着を着ている事にやっと気がついた。そうか。今日は、スカートははいてなかったのか。だから、あんなにすいすいと自転車を漕げるのだ。えっ?と言うことは、店のマネキン人形に化けてたんじゃなかったのか、あの人は。だんだん、分からなくなって来た。

かなり広い地域を走り回った自転車は、やがて再び店の方に向かい始めた。もうすぐ三時になる。もしかしてまた、元の場所に帰って行くのだろうか。どこかに逃げて行くつもりじゃなかったのか。どうもよく分からない。とにかくおれは、ずっと走り続けて死ぬほど苦しくなっていた。なんだか自転車が、わざとゆっくりと走っているように見える。おれが後ろから走って追いかけて来るのを楽しんでいるかのようだ。まるで、マラソンの練習をやらされているみたいだな、これでは。

◆ 再び店の前の自転車置き場まで戻って来た女の人は、自転車を降りると、すぐにどこかに走り去って行って、そのまま姿が見えなくなってしまった。店の中に入って行ったのだろうか。しばらくたって、やっと店の前に帰り着いたおれは、よたよたになりながら店の中に入って行ったが、その時はすでに三時を過ぎていた。店の中は、外と同じで、どこにも人がいなかった。マネキンたちだけが、静かに立っていた。さっき、警備員たちが集まって来ていた、店の一番奥のコーナーの、おそらくあの女の人がはじめ、マネキンに化けたまま立っていたであろう場所にやって来たおれは、並んでいるマネキン人形を見回したが、あの人がさっき、自転車を漕いでいた時に着ていたのと同じ運動着を身に着けた人形は、どこにもなかった。
「おーい。」
と、おれは店の中で叫んだ。
「今度、また会おう。」
店の中は、静まり返っていた。どっと疲れが出て来たおれは、誰もいない店の中の床の上で仰向けになった。

だいぶ長い間、床の上でじっとしていたおれは、少し体が楽になって来たところで、再び起き上がった。さて、そろそろ、家に帰るとするか。と、誰もいない店の中を歩いて、外の自転車置き場に向かったが、何かを忘れているような気がする。さて、何を忘れているのだか、どうも思い出せない。そのまま、自転車置き場まで行って、さっき女の人が漕いで来たばかりの自転車に乗って帰ろうとした。ところが、自転車が動かない。なんでだ。おれは自転車を降りてあちらこちらを調べてみたが、どこも変わったところはない。おかしい。おれは両手で自転車のハンドルをつかんで力いっぱい押してみたが、全然進まない。こ、これは。まるで自転車のタイヤが接着剤か何かで地面にくっついているかのようだ。なんでこうなるんだ。おれはしばらく考えた。だんだん日が傾いて来たが、外には相変わらず人の姿は無く、道路には一台も車が走っていなかった。
そうか。ようやくおれは、気がついた。自分は今、現実とは違うどこか別の世界の中にいるのだ。おれはそう思った。あの人は、午後の三時になった瞬間にどこかに消えて行ってしまうのだ。そしておれだけが、この別の世界の中に取り残されたままになっている。何かをしなければ、もとの現実の世界には戻れないのだ。
だんだん、分かって来た気がする。おれは再び、誰もいない店の中に入って行こうとしたが、その時、はっと思った。さっきのあの女、自転車を降りた後、すぐにあの喫茶室に行ったんじゃないのか。だから途中で、姿を見失ってしまったんだ。くそっ、そうだったのか。おれはあわてて駆け出した。急いで店の外側を回ると、さっき出て来た喫茶室の外の入り口から中に入った。だれもいない喫茶室の中を隅から隅まで見て回ったが、どこにも誰も隠れてなんかいない。と言うことは、ここから店の中に入って行ったのか。
おれは急いで、店内に通じる入り口のドアを開けようとしたが、どうやってもドアが開かない。途方に暮れたおれは、しばらく呆然と立ちすくんだが、だいぶたってから、やっと思い出した。そうだった。店の中からこの喫茶室に入る時、後ろ向きになってドアを開けないと、入れなかったのだった。ここが、別の世界に入る入り口だったのだ。おれは、自分の背中をドアに当て、後ろ向きになってゆっくりとドアを背中で押してみた。その瞬間、店内のざわめきと人々の声が聞えて来た。見ると、店の中は大勢の人たちで大変な混雑だ。まるで、さっきまでのことが、まぼろしであったかのようだ。なんと、これだけ人が多くてはもう、あの女の人を見つけ出すなんて事は無理だ。
あきらめたおれは、再び、外の自転車置き場に行った。そして、自分の自転車に乗ると、家に向かって漕ぎ始めた。近くの道路は、店の駐車場に入って行く車と出て行く車とで、大変な混雑ぶりだった。

2006.09.10 記事公開

土曜の午後 4 海

◆ それからまた、一週間が過ぎて、次の土曜日がやって来た。会社の仕事が忙しくなって来て、その日は朝から営業所に出勤した。午後の一時過ぎに仕事を終えると、おれは急いで車に乗って、先週、新装開店したばかりのあの店に向かった。昼食をとる時間はなかった。なんとか午後二時までには、店に着かないと。そうすれば、二時ちょうどになった時、先週と同じように、店内が一瞬だけ停電するはずだ。そして、店の奥にある喫茶室は二時から三時の間は閉まっているから、そこに行けばあの人がいるはずだ。
やっと店の駐車場に着いた時は、二時直前だった。おれは急いで車から出ると、店の中に駆け込んで行ったが、その時はすでに二時を過ぎていた。二時ちょうどに、店内が停電したかどうか、残念ながら確かめられなかった。中に入ってみると、先週の混雑ぶりと比べて、客がまばらなように思えた。それはともかく、店内の配置ががらりと変わってしまっていて、どこに何があるのかが、まるでさっぱり分からない。まあいい。とにかく、喫茶室に行ってみよう。今、閉まっているはずだ。

喫茶室の入り口まで来て、おれは驚いた。中には大勢の客がいる。きょうは二時を過ぎてもやっているのか。念のため、おれは入り口のドアをゆっくりと押してみた。ドアは静かに開いた。
「いらっしゃいませ。」
と、喫茶室の店員の声が中から聞えると、おれはあわててドアの外に出た。どうなっているんだ、きょうは。おれがはじめ考えていた予定と違うぞ。待てよ。先週やったように、後ろ向きになってここのドアを開けてみたらどうなるんだ。
そう考えたおれは、背中を喫茶室の入り口のドアに向け、後ろ向きになってドアを押してみた。ドアはゆっくりと開いた。そのとたん、中のカウンターの店員と目が合った。さっき、声をかけてくれた人だ。
「あ、ど、どうも。たびたび失礼しました。」
そう言うとおれは、あわてて喫茶室を出た。もう、何がどうなっているのだか、さっぱり分からない。しかし、急がないとどんどん時間が過ぎて行ってしまう。すっかり頭の中が混乱してしまったおれは、その時やっと、さっき、車のドアをロックせずに、あわてて店の中に入って来てしまった事に気がついた。そうだった。とにかくまず、自分の車のドアをロックしておかないと。それから、この後、どうするかを考えよう。おれは急いで駐車場に行った。

駐車場は人影がまばらだった。おれの車は、特に変わったようすはなかった。そこでおれは、ドアを開けてみようとしたが、いくら引っ張っても開かない。なんだ。ちゃんとロックしてあったのか。ロックし忘れたと思ったのは、おれの勘違いだったのか。と思って、車の窓から中のようすを見たが、やっぱりロックはしてない。なぜドアが開かないんだ。おれはポケットから車のキーを取り出すと、ロックを掛けたり外したりしたが、どちらにしてもドアは開かない。おかしい。と思って、もう一度、思いっ切り引っ張ってみると、ドアは少し開きかけると、すぐまた閉まってしまう。とうとう、おかしくなってしまったのか、この車は。あっ、いや、そうじゃないぞ。これは、もしかすると・・・。
おれはやっとそこで気がつくと、今度は後ろ向きになって車のドアを引いてみた。するとドアは何事もなかったかのように、すんなりと開いた。やれやれ、やっと開いた。と思った瞬間、
「何ぐずぐずしてるのっ!!急いでっ!!」
と、おれに向かって怒鳴りつける声が車の中から鳴り渡った。ぎょっ、お化けか、これは。おれの車の中に、いつの間に化け物が入り込んでいたんだ?

◆ 驚いて中を見ると、いつの間にかあの女の人が、後ろの座席に腰掛けている。さっき、外から車の中をのぞいた時には、誰もいなかったはずなのに。この女、やっぱり妖怪だったのか?突然の出来事に、おれは気が動転してしまった。
「早く出かけましょうよ。」
今度は、さっきより少しやさしい声で女の人が言った。
「出かけるって、どこへ・・・?」
おれが、ひとり言のようにつぶやくと、
「海まで連れてってくれるんでしょ?」
いつの間に、そんな話になってしまったんだ。
「早く出かけないと、泳ぐ時間がなくなっちゃうじゃないのっ!」
泳ぐって、水着もないのに泳ぐのか。あ、もしかして。と、おれは後ろの座席の女の人をもう一度、よく見た。なんと水着姿だった。そこでおれは、やっと分かった。きょうは、店の入り口が水着のコーナーになっていたのだ。きっとこの人は、そこのマネキン人形になっていたのだろう。それで、二時になるとすぐ、店の入り口から外に飛び出した。たまたま、おれの車のドアがロックしてなかったので、すぐにおれの車の中に乗り込んで、ずっとそこで待っていたのだ。そういう事だったのか。やっと納得したおれは、運転席に腰掛けると、車のドアを閉めた。こうしてはいられない。すぐに海に向かって出発だ。しかし・・・。
「ここから海まで行くだけで、たぶん、一時間はかかってしまうな。途中、信号も多いし、土曜日だから、道も混んでいるだろうし・・・。」
「なに言ってるのっ!車なんか一台も走ってないでしょ!」
女の人が再び、怒るように叫んだので、おれははっとした。そうか、そうだったのか。さっき、後ろ向きになって車のドアを開けた瞬間から、おれは別の世界に入っていたのだ。だからよく見ると、外には誰も人が歩いていないし、車も一台も走っていない。そういう事だったのか。そうと分かったおれは、少しでも女の人が長い時間泳げるようにと、一台も車が走っていない道を猛スピードで、海を目指してぶっ飛ばして行った。

◆ 不思議な事に、どこまで走り続けて行っても、道路には一台も車が無かっただけでなく、途中の信号はどこまで行っても皆、青だった。おれは、延々と車を飛ばし続けた。
しばらくして広い国道に出ると、おれは思い出したように女の人に聞いてみた。
「ところで君、なんて言う名前なの?」
すると女の人は、しばらくたってから、
「名前ですか。名前はありますけど、もう忘れましたよ。だいぶ長いこと、使ってないし。」
住所はどこなの?と、次に聞こうか、と思っていたおれは、これで調子を狂わされてしまった。
「じゃ、お父さんとお母さんはどこにいるの?」
何の考えもなく、ふと思いついたように、おれはそう聞いてみたが、女の人から返事はなかった。しばらくたって、女の人がうつむいて涙ぐんでいるのが分かった。まずい事を聞いてしまったみたいだな。そう思ったおれは、その後は何も聞かずに、黙って運転に専念した。何だかよく分からない、謎の女だな・・・。

◆ 思っていたよりもずっと早く、海辺の海水浴場に到着すると、駐車場には何台かの車が停まっていたが、浜辺には人影は無かった。着いたとたんに女の人は、車のドアを開けると外に駆け出して行った。何と浮き輪まで持っている。気がつかなかった。
「いっしょに泳ぎましょう!」
と女の人は、おれに向かって手を振りながら叫んだ。いや、それは困る。まだ昼飯を食べてないし、泳ぐ用意なんかしてないし。おれが苦笑して首を横に振ると、女の人はがっかりしたようなしぐさをしてから、車のすぐ横まで戻って来た。
「じゃあ、時間が来たら知らせてね。それから、こんな所になんかいないで、いっしょに来て、ちゃんと私を見てて。」
と甘えるように言って来たので、ついついおれも腹が減っているのを忘れてしまって、車を降りると、一緒に浜辺まで歩いて行った。
さすがに、久しぶりに海まで来てみるといい気分だ。ここに来るのが分かっていたなら、釣りの道具でも持って来ればよかった。キスとか釣れそうだな、ここなら。天ぷらにして食べたらうまいだろうな。見晴らしのいい少し小高い場所の木の陰に腰を下ろしたおれは、とたんに疲れがどっと出て来て、仰向けに寝転がると、そのままうつらうつらとし始めた。

だいぶたってから、あ、そうだった。と、思わずおれは、あわてて起き上がった。今、どこにいるんだ、あの子は。と、あちらこちらを見渡したが、どこにも、誰の姿も見えない。おれは青ざめた。時計を見ると、とっくに三時を過ぎていた。あの人は、三時を過ぎたら人間の姿ではいられないはず。と言うことは・・・。もしかして、マネキン人形になって潮に流されるまま沖の方まで行ってしまっているのかも。
おれは一番高い岩の上まで登って行って、海を見渡したが、どこにも何も浮かんでいるようすもなければ、誰も泳いでいるようすもない。ひょっとして、おれの車の中に戻っているのか。ドアをロックしておいたから、中には入れないとは思うが。
おれは急いで、駐車場まで走って行った。だいぶ日が傾いて来ていた。いつの間にか駐車場には、ほかの車は一台も無くなっていた。おれは、車のキーを取り出してドアのロックを外したが、いくらドアを引っ張っても開かない。いったい、どうなってるんだ、この車は。疲れがたまっていたせいで、いきなり腹の底が煮え繰り返ったおれは、全身の力を込めて思いっ切りドアを引っ張った。が、ドアはほんの少し開きかけると、すぐまた閉まってしまった。あ、そういう事だったのか。やっと思い出したおれは、背中をドアに向けて、後ろ向きになってドアを引いてみた。するとドアは、何事もなかったかのようにすんなりと開いた。
中を見ると、車の中には、誰もいなかった。どうしたんだろう、あの子は。もしかして、次の土曜日の午後二時になって人間の姿に戻るまで、あの人は人形になったまま、太平洋を漂流しているのだろうか。分からない。いったい、今、どうしているのか。
呆然となったおれは、しばらくして、ふと思った。ここに着いた時、何台か停めてあった車が、無くなっているのが気になる。ひょっとしたら、あの子は、よその車に乗って帰って行ったのかも。三時直前になっても、おれが熟睡したまま目を覚まさなかったので、そうしたのかも知れない。だんだん、そんな気がして来た。
おれはあきらめて、家に帰る事にした。海辺を離れて町の中に入って行くと、急に道路が車で混み合って来た。そうか。行きは一台も車が無かったが、さっき、後ろ向きになってこの車の中に入った時、おれは現実の世界に戻ったのだ。それで、いつもの土曜日の夕方の混雑ぶりになっているのだ。
途中でレストランを見つけると、おれは車を停めて、そこでやっと今日の昼食をとった。食べ終わると、どっと疲れが出て来た。

2006.09.13 記事公開

土曜の午後 5 コーヒー

◆ それから何週間かが過ぎて、再び土曜日がやって来た。朝の新聞のチラシをめくっていたおれは驚いた。なんと、あの女の人の写真がでかでかとチラシに載っている。それも、おいしそうにコーヒーを飲んでいるところが。よく見ると今度、新しく駅前にオープンしたコーヒー店のチラシだ。よっぽどコーヒーが好きなんだな、あの女は。いやいや、そんな事はどうでもいい。この写真は明らかに、あの女が人間の姿でいる時に撮ったものだ。と言うことは、あの人を知っているやつがおれ以外にも誰かいて、そいつがたぶん、あの人が人間の姿でいるはずの土曜日の午後二時から三時の間に、この写真を撮影したという事だ。いったい、どこの誰なんだ、そいつは。ところでこの女、ずいぶん顔が日焼けしているな。と言うことは、おれが海へ連れて行ってやった後なのか、この写真を撮ったのは。よかった。太平洋を漂流してたんじゃなかった。やっぱりあの時、誰かの車に乗せてもらって帰って行ったのだ。
おれは安心した。が、のんびりとはしていられなくなった。とにかくまず、ここの店を訪ねてみよう。あの人が今、どこにいるのかが分かるかも知れない。

◆ と言うことでさっそく、おれは駅前のコーヒー店まで出かけて行った。店に入ると、中にもやっぱりあの女の顔がでかでかと載ったポスターが貼ってあったが、店内にあの人らしき人はいなかった。
コーヒーを飲み終わって、カウンターで代金を払う時に、おれは店の人に聞いてみた。
「あのポスターのきれいなお姉さんは、ここの店員さんじゃなかったんですか?」
「いえいえ、違いますよ。」
と、店の人は笑って答えた。
「でも、あの写真はここの店で撮ったやつですね?」
「いえいえ。全部、デザイナーに頼んで作ってもらった物です。ポスターに載ってる人は、モデルさんなので、うちの店とは何の関係もないです。なんなら、こちらに問い合わせてみたらどうですか。」
と言って、あの女の人の載っているポスターを作ったデザイナーのスタジオのある場所と電話番号を教えてくれたが、なんと、おれの家のすぐ近くじゃないか。おれは内心、驚いた。

◆ さっそくおれは店を出ると、教えてもらったデザインスタジオに行ってみた。それにしても、自分の住んでいる町内に、あの謎の女の事を知っているやつがいたとは。もっと早く、こういう事は調べておくべきだった。
教えてもらった所に行ってみると、確かにまるまるデザインスタジオとか言う二階建ての建物がある。しかし、看板が小さくて、よほど注意して見ないと分からない。ほとんどの人たちは、ここが何の仕事場なのか分からないまま、ここの前を通り過ぎて行っている事だろう。建物の一階はシャッターが降ろしてあって、たぶんここが車庫で二階が仕事場なのだろうが、二階の窓は皆、ブラインドが掛かっていて、中に人がいるのかどうかも分からない。と思ったおれは、きょうが土曜日である事をやっとそこで思い出した。そうだ。ここのデザイナーは、あの女の人が人間の姿でいるはずのきょうの午後二時から三時の間に、あの人をモデルにしてここで仕事をするはずだ。ということは、二時になったら、あの人がここへやって来ると言うことだな。よし、わかったぞ。

◆ おれはいったん家に帰ると、午後二時少し前にまた、デザインスタジオに行ってみた。そしたらちょうど、車庫からワンボックスの車が出て行くところだった。あれれ、どうしてなんだ。二時過ぎにここにあの人がやって来るんじゃなかったのか。
まさか、ここのデザイナーが車で外へ出かけて行くとは思っていなかった。建物の前まで来た時には、車庫のシャッターは既に閉まっていて、その後はどれだけ待っても何も変わった事はなかった。どうも、二階の仕事場には人が残っているようすはない。と言うことは、この後、どこか別の場所であの女と待ち合わせをする事になっているのだろうか。そうかも知れない。周りの住人に、あの謎の女の事を知られないためにわざとそうしているのかも。

時間がたって、三時を少し過ぎた頃、再びさっきのワンボックスの車が帰って来て、車庫に入るとすぐにシャッターが閉まった。どうやら、車の中からリモコンでシャッターの開閉をしているようだ。ワンボックスの車は、外からは中のようすが見えないようになっていて、運転をしていたのがどんな人なのかもよく分からなかった。一階の車庫には、あの車以外には何も無かったように見えた。
その後は、どれだけ待っても何も起こらなかった。二階の仕事場もずっと人がいるようすはない。おかしい。さっきの車を運転して戻って来たやつは、今、何をしているのだろうか。と思って、道を回って建物の裏まで行ってみると、小さな裏口があるのが分かった。あの車を運転して来た人間は、とっくに裏口を出て、自分の家に帰って行ってしまっていたのだ。しまった。そんなところまでは頭が回らなかった。残念だが、きょうはもう、これ以上ここにいてもしかたが無い。きっと、来週の土曜日の午後も、あの車はここからどこかに出かけて行くのだろう。今度は、おれの車で後をつけて行ってやろう。
おれはそのまま家に帰った。デザインスタジオからおれの家までは、歩いて数分の距離だった。たぶん、あの子を乗せて車で海へ行ったあの時、駐車場に何台か停めてあったほかの車の中に、ドアがロックしてなかった車があったのだろう。それであの子は、その車に乗った。それがたまたま、あのデザインスタジオの人間の車だったのだ。そして、あの人にたぶん、缶コーヒーでもあげたらあまりにもおいしそうに飲むので、あのコーヒー店のチラシのモデルに採用する事に決めたのに違いない。しかし、あの程度の写真を撮るだけなら、あそこの二階のスタジオでも間に合うと思うんだが、いったい、車でどこへ行っていたのだろうか。

2006.09.23 記事公開

土曜の午後 6 カメラマン

◆ それから、また、次の土曜日がやって来た。この一週間、あの謎の若い女と出会った人間が自分以外にもいたと言う事実を知って、おれはショックを受けていた。いったいどこの誰なんだ?そして毎週、土曜日の午後にあの女とどこで何をしているんだ?
午後二時少し前に、おれは車に乗って家を出て、あのデザインスタジオから少し離れた所で車を停めると、中からじっとようすを見ていた。しばらくすると、先週と同じように車庫のシャッターが開いて、ワンボックスの車が出て行った。おれは相手に気づかれないように車の後を追った。車は町の中の道をしばらく走ると、広い国道のすぐ近くの脇道に入って、そこで停まった。この国道は、片側だけで四車線もあるものすごく広い道で、車が絶えずひっきりなしに走っている所だ。おれは、少し離れた所に自分の車を停めると、中からあのワンボックスの車のようすを見ていたが、いつまでたっても、車はそこにずっと停まったままで、誰も車の中から出て来ないし、また、誰も車のそばにやって来ない。
どうもおかしい。もう二時半になってしまった。とっくに何かが始まっているはずなのに。もしかして、誰かが車から外に出て行ったところをおれがうっかり見逃していたのだろうか?
そう思ったおれは、急いで車の外に出ようとした。ところが、ドアが開かない。なぜだ。ロックは外してあるのに。おれは急に、何が何だかわけが分からなくなった。どれだけ押しても、ドアが開かない。そのうち、ほんの少しドアが開きかけると、すぐまた閉まってしまうのに気がついた。もしかしてこれは・・・。ふと考えたおれは、自分の背中をドアに向け、後ろ向きになったまま車のドアを押してみた。するとドアは、何事も無かったかのようにすんなりと開いた。

◆ この近くのどこかに今、あの女がいる。おれはそっと車の外に出ると、周りのようすを見たが、どこにも誰の人影も無かった。もしかして、国道の近くにいるのだろうか。おれは国道沿いに並んでいる建物の陰から、道路の方をのぞいて見た。すると、昼間ならひっきりなしに車が走っているはずのあの国道に、一台も車が走っていない。あたりはどこにも誰もいない、無人の世界になっていた。だから車の走っている音が、どこからも聞こえて来ないのか。待てよ。あ、あんな所に人がいるぞ。緊張したおれは、身を屈めて、誰にも気づかれないように、歩道の植木の陰を伝って進んで行った。

きっとあれは、あの人だ。サングラスをかけているからよく分からないが、顔がまだ日焼けしたままだ。海に連れて行ってから、もう、一か月はたっているのに。もしかして、一週間のうちの土曜日の午後二時から三時の間しか人間の姿でいないから、いつまでたっても、肌の色がもとに戻らないってことなのか。ところで、あそこで何をしているんだ。
サングラスをかけた女は、車が一台も走っていない広い道路の上を行ったり来たりしながら、しきりにポーズをとっている。なんと、その周りではたくさんの鳩があちこち歩き回っている。あそこで写真を撮っているのだ。と言うことは・・・。あ、あそこにいた。
やっとおれは、少し離れた植木のそばから写真を撮っているカメラマンを見つけた。あいつが、あのデザインスタジオの人間だったのか。と言うことは、あのワンボックスの車もたぶん、あいつが運転していたんだな。おれは、道路の上のカメラマンの動きをじっと目を凝らして見続けた。そして、ようやく気がついた。女のカメラマンだ。なんと、思いもよらなかった。カメラマンとサングラスをかけた女は笑いながら、声をかけ合いながら、広い道路のあちらこちらに行っては写真を撮り続けていた。
何だか、楽しそうだな。と言うか、女どうしだとやっぱり気楽でいいんだろうな。だんだんおれは、分かって来た。土曜日の午後二時過ぎにあの女と出会うと、周りに誰も人がいないこの不思議な世界の中に入ることができる。そのことに、あのカメラマンは気がついたのだ。そうすると、普通であれば車がいっぱい走っていたり、人が大勢歩いていたりして写真を撮ることができないような場所でも、珍しい写真をいくらでも撮ることができる。だからあのカメラマンにとっては、あの人がどうしても必要なのだ。
もしかしたら、あの人にとっては、今が一番楽しい時なのかも知れない。そう思ったおれは、その場を静かに立ち去ることにした。あの人たちをこのままの状態にしておいてあげよう。

◆ 再び身を屈めて、忍び足で自分の車まで戻って来たおれは、車のドアを開けようとした。が、どれだけ引っ張ってもドアが開かない。ロックは外してあるのに。もしかしてまた、後ろ向きになって開けないといけないのか。そう思ったおれは、自分の背中をドアに向け、後ろ向きになったまま車のドアを引いた。すると、ドアは何事も無かったかのようにすんなりと開いた。
おれは車に乗り込んだ。まだ三時前だった。車が走り出すとしばらくして、あちらこちらでほかの車が道路を走っているのが見えて来た。今日はおれだけが、先に元の世界に戻って来てしまったのだ。何となくおれは、寂しさを感じた。

家に帰り着いたおれは、部屋の窓を開けると、しばらく外の景色をぼんやりと眺めていた。一つの時が終わったことをおれは感じた。きょうが自分の人生の中で、あの人の姿を見届けた最後の日になるのかも知れない。あのカメラマンが、あの人といつまで係わりを持ち続けて行くことになるのかは分からないが、とにかく、おれの役目はもう終わったのだ。おれは今、長かった土曜日の午後のまぼろしから目覚めて、これから普通の人生に戻って行くのだ。不思議な気楽さに、おれはしばらく浸った。

夕方になっておれは、家の近くの川沿いの道にぶらりと散歩に出かけた。周りの景色を眺めながらのんびりと歩いているうちに、ふとおれは思った。そう言えば、あの謎の女と出会った時は、いつもおれは、後ろ向きになって何かのドアを開けていた。一番最初に、前にいた営業所の表のドアを開けた時がそうだった。それから、今の営業所で裏口のドアを開けた時も。新装開店したあの衣料品の店で、誰もいない喫茶室のドアを開けた時も、店の駐車場で自分の車のドアを開けた時も皆、そうだった。どうしてなんだろうか。おれは、歩きながら考えた。そのうち、あの女の人が土曜日の午後二時から三時の間以外の時、いったいどこで何をして生きているのかが、気になってしかたなくなって来た。いったい、あの女の正体は、本当は何なんだ。どれだけ考えても、分からない。
やがて、夕空のあちらこちらに星が輝き始めた。その時、おれはひらめいた。もしかして、土曜日の午後二時過ぎに何かのドアを開けるとき、片手に鏡を持って、後ろ向きになったまま、鏡に写る前方のようすを見ながらドアを開けたら、どうなるんだ。ひょっとしたら、三時を過ぎても、あの謎の女の姿をずっと見失わずにいられるかも知れないぞ。そうしたら、あいつの正体を見届けることができるかも。今までは、ただ後ろを向いたままでドアを開けていたから、三時になったとたんに、あいつの姿が見えなくなってしまったのだ。よし、来週の土曜日になったら、さっそく試してみよう。
おれは、そう心に決めた。

2006.09.24 記事公開

土曜の午後 7 鏡

◆ そして、また一週間が過ぎて、土曜日の朝がやって来た。空は晴れていた。が、何となくおれは気が重かった。今日はいよいよ、鏡の実験をするのだが、自分が思っていたのとは違ったことが起こったりはしないだろうか、と妙におれは不安になっていた。先週、あの人は女のカメラマンと一緒に、車が一台も走っていない国道の上で写真を撮っていた。たとえば、もしあそこに、突然、車が現れたりしたら、あの二人は、国道を走って行く車に次々とはねられてしまったかも知れない。さて、どうしようか。おれはしばらく考え込んだ。
結局、きょう、あの二人が、いったいどこへ写真を撮りに行くかによるのだ。先週と同じように国道の上で写真を撮っているのなら、鏡の実験をやるのは危険だ。しかし、もっと安全な場所に行くのだったら、鏡の実験をやってみてもいいかも。

◆ 午後二時が近づくと、先週と同じように、おれは車に乗って家を出て、デザインスタジオから少し離れた所で車を停めた。しばらくすると、先週と同じように車庫のシャッターが開いて、ワンボックスの車が出て行った。先週と同じように、おれは車の後を追った。ワンボックスの車は、きょうは町の中心部に向かって走って行って、駅の裏通りの狭い路地に入って、そこで停まった。おれは少し離れた所に自分の車を停めようと思ったが、このあたりはどこも路上駐車禁止の区域になっていて、安心して車を停めておけるような場所がどこにも無い。困った。最初から想定外の事態になってしまった。やむをえん。きょうに限っては、五分か十分おきにでも車に戻って来ては、車を少しずつ移動するしかない。同じ場所にずっと停めておいたら、そのうちレッカー車でどこかに持って行かれそうだ。
しばらく考えてそうする事に決めたおれは、車のドアを押してみた。するとドアは、少し開きかけるとすぐまた閉まった。今、この近くのどこかにあの人がいると言うことだ。だから今、このドアは、別の世界への入り口になっているのだ。そう考えたおれは、自分の背中をドアに向けて後ろ向きになってドアを押してみた。すると、車のドアは、何事も無かったかのようにすんなりと開いた。おれはそっと、車の外に出た。周りはどこにも人影が無かった。
さてまず、あの二人が今、どこで写真を撮っているのか見つけないといけない。それからすぐ、またここまで戻って来て、車を少し移動させないと。おれは急いで二人を捜しに出かけた。たぶん、駅前の広場にいるんじゃないのか。なんとなく、そんな気がした。駅前の広場は唯一の待ち合わせの場所で、いつも大勢の人たちが集まっている。晴れた昼間に人がいない事はあり得ない場所で、人がいない写真を撮ろうと思ったら、あそこしかないはずだ。おれは急いで駅前広場に行ってみた。思った通りだった。ほかに誰も人がいない広場で、あの人と女のカメラマンが、勢いよく噴き出している噴水をバックに、たくさんの鳩に囲まれながら、夢中で写真を撮り続けている。よし、分かった。きょうは三時までずっと、あそこで写真を撮っているつもりだな。ではさっそく、鏡の実験を始めるか。
おれは急いで裏通りに停めておいた自分の車まで走って戻って来ると、ドアを開けようとしたが、いくら引っ張ってもドアが開かない。おっと、そうだった。ドアを出入りする時は、いちいち後ろ向きになって開けないといけないのだった。はっと思い出したおれは、自分の背中をドアに向け、後ろ向きになってドアを引いた。ドアはすんなりと開いた。急いで車に乗り込んで、ドアを閉めたとたんに、後ろの方から別の車の警笛が聞こえた。邪魔だからすぐ退け、と言っているんだな。おれは、あわててエンジンをかけ、車を少し離れた別の場所まで動かすと、そこで再び、車を停めた。さて、いよいよ、本当に実験を始めることになってしまった。おれは恐る恐る、持って来た鏡を取り出した。

◆ 待て待て。もう一度、今、ドアの外が別の世界になっているのかどうかを確かめてみないと。周りに車の行き来が途絶えたのを見計らって、おれはまたドアを押してみたが、ドアは開きかけるとすぐ閉まった。確かに今、外は別の世界になっている。よし。やるなら今だ。おれは決心すると、片手で鏡を持ち、車のドアに自分の背中を向け、後ろ向きになったまま、鏡に写ったドアの前方を見ながらゆっくりとドアを押した。ドアが開いた瞬間に、自分が今まで聞いたことの無いような音が聞こえた。何の音だろうか。
おれは、ゆっくりとドアの外に出た。周りには人影は無かった。あの二人はちゃんと今、生きているだろうか。急に不安になったおれは、急いで、全力で駅前広場まで走って行った。途中、路上にはどこにも人影が無かった。

◆ あ、いた。さっきと、何も変わってない。あわてて駅前の広場まで戻って来てみると、あの二人は、さっきと同じように写真を撮り続けている。周りには、ほかにどこにも人影が無い。車のドアを開けた時に、変な音が聞こえたが、別に何でもなかったのか。しばらくぼんやりと考えているうちに、あ、また車に戻らないといけない、と、おれは思い出した。こんな事を繰り返していたら、そのうち何が何だかわけが分からなくなって来てしまうな。そう思いながら、再び車に戻ろうとしたおれは、いつの間にか空が暗くなって来ている事にやっとその時、気がついた。と、その瞬間、
「ゴロゴロゴロッ。」
と、空全体に稲妻が走って、ものすごい音がとどろき渡った。あっと言う間に、あたりはどしゃ降りの大雨になった。あの二人は、と思って広場の方を振り返ったおれは、驚いた。さっきまで、何事も無かったかのように広場のあちらこちらで写真のポーズをとっていたあの人が、倒れている。そして女のカメラマンが、必死になってあの人を起き上がらせようとしている。今、雷が鳴った時に倒れたのか。いや、そうじゃない。さっき、おれが鏡を見ながら車のドアを開けたあの時に、あの人に何かが起きたのだ。これは、大変な事になってしまった。どうしたらいいんだ。おれの頭の中が、一ぺんに真っ白になった。 女のカメラマンは、倒れたあの人を雨の当たらない場所に運ぼうとしているみたいだったが、あの小さな細い体では、そんな力ははじめから無い。雨がどんどん激しくなると、とうとうあの人を残して、どこかに走り去って行ってしまった。と、その直後、
「ドッシーン。」
と、ものすごい音が響き渡って、あの人の倒れているすぐ近くの並木に雷が落ちた。その時、あの人の体が転がるのが見えた。
どうなったんだ。おれはあわてて、雷が落ちた場所に走って行った。ものすごい豪雨で、ほんの数メートル先も見えないくらいになって来た。焦げ臭いにおいの漂うあたりを必死になって捜してみたが、あの人の姿はどこにも無かった。どこへ消えて行ってしまったんだ?時計を見ると、まだ二時半にもなっていない。土曜日の午後三時までは、人間の姿でいられるんじゃなかったのか。分からない。何がどうなったのか、さっぱり。あ、そうだった。今のうちに、車に戻らないと。雨がやんだら、レッカー車に持って行かれてしまうぞ。はっと思い出したおれは、あわてて車を停めておいた場所へ走って行った。
車のドアを開けて、急いで運転席に腰掛けると、車のドアを閉めた。不思議な事に、おれが車の中に戻ってドアを閉めるとすぐに、どしゃ降りだった雨がさっと小降りになった。と、そのとたん、後ろの方から車の警笛が聞こえた。また、退け、と言っているんだな。おれはあわててエンジンをかけると、車を動かし始めた。そうだ。駅前の広場のようすが気になる。もし、あの人が倒れているのが見つかったら、今ごろ、大騒ぎになっているはずだ。
おれは、急いで車で駅前広場に向かった。雨が上がった広場には、たくさんの人たちがいたが、何の騒ぎも無く、救急車が来ているようすも無かった。やっぱりあの人は、本当に消えてしまったのだろうか。しかたがない。もう、ここには用は無くなった。おれはあきらめると、そのまま家に帰る事にした。雨上がりの道は、たくさんの車が行き来していた。
車を運転しているうちに、おれは、ある事に気づいた。この車に戻って来た時、後ろ向きにならずにドアを開けたな・・・。と言うことは、あの広場の並木に雷が落ちた時に、おれは元の世界に戻っていたと言うことなのか。

◆ 家に帰って来たおれは、日の当たる窓から町のようすを眺めた。長かった土曜日の午後のまぼろしが、これで終わったのだった。この時以来、あの人の姿を再び見ることは無かった。

2006.10.07 記事公開

土曜の午後 8 社長室

◆ それから月日が過ぎて行って、会社の年度の節目が近づいて来たある日のこと。営業所で、突然おれは、所長に呼び出された。知らないうちにまた何か、へまでも仕出かしていたのだろうか。おれは、びくびくしながら所長室に入った。
「どうだ。元気でやっているか。」
部屋に入ると、所長が声をかけた。
「は、元気でやっております。」
「そうか。そこに座れ。」
と言われて、向かい側のソファに腰掛けると、所長はじっとおれの顔を見つめてから言った。
「今月末をもって君は、人事異動となった。」
え?どこへ?おれは驚いた。それにしても、今月ももう下旬だと言うのに、こんな事がいきなり来るものなのか。と思っていると、所長はおれの顔を心配そうに眺めながら続けた。
「来月から君は、本社に勤務してもらう事になった。」
意外だった。自分のような人間が、本社に勤務するなんて、今まで、考えた事も無かった。
「本社で、何を担当するんでしょうか。」
「まったく分からん。」と、所長は言った。
「君は来月一日の午前九時に本社に行って、そこで、本社の人事部長と面接をする事になっている。何を担当する事になるのかは、そこで決まるらしい。」
話が終わって、おれは所長室を出た。何だか、足が床についていないような感じがした。それはともかく、急いで今までやっていた仕事の引継ぎをしないといけない。あと、一週間とちょっとしか残っていないのだから。

◆ それから一週間とちょっとの間になんとか仕事の引継ぎが終わって、いよいよ月が替わった一日、おれは朝、はじめて本社に出かけた。本社ビルに着くと、さっそく、人事部人事課に行った。すると、出て来た人事課の人が、部長は今日は昼過ぎまで会議なので、最上階の社長室で待機していてくれと言う。何でいきなり、社長室に行かされるんだ?
言われた通り、エレベーターで最上階の社長室に行くと、入り口のドアをノックしたが、何の返事も無かった。取っ手を回すとドアが開いた。ロックはしてなかった。部屋の中はがらんとしていて、部屋の奥にもう一つのドアがある。もしかして、あのドアの向こうが本当の社長室なのか。と言うことは、あの隣の部屋に今、うちの会社の社長がいるという事か。おれは緊張した。
それから時間がたっていったが、隣の部屋からは何の物音も聞こえて来なかった。どうやら、誰もいないみたいだ。社長は今、どこかに出かけているのだろうか。きっと、人事部長が出席しているという会議に社長も出ているのだろう。
ところでトイレは、どこに行けばいいんだ?しばらくして、おれはふと思った。部屋の中にはトイレも無ければ、水道の蛇口も無い。そう言えば、どこでお湯を沸かせばいいんだ?これじゃ、コーヒーも飲めないし、カップラーメンも食べられない。あ、そう言えば・・・。と、そこでおれは、やっと気がついた。社長に来客があった時にお茶を出す、接待係の女の子がいないじゃないか。いったい、どうなっているんだ、ここは。
とにかくまず、トイレがどこにあるのかを確かめるのが先だ。そう思って、部屋を出て廊下をあちこち見回してみたら、すぐ近くにトイレがあった。ところが行ってみると、男子トイレなのか女子トイレなのか、どこにも何も表示がない。誰も中には入っていないみたいなので、ちょっとのぞいて見ると、これがすごい。観音開きの扉を開けると、手洗い場の鏡が実に立派。中は洋式のトイレが四つか五つ並んでいる。ここってもともと、女子トイレだったのか?と言うか、女の秘書が化粧をするために使う所なのだろうか。まあ、いい。社長室のすぐ隣にあるのだから、おれが使っても、誰も文句は言わないだろう。だいたい、この階には今、おれ以外には誰もいないんじゃないのか、ひょっとして。さっきから全然、周りに人の気配がしないんだが。部屋に戻ろうと思ってトイレを出たおれは、すぐ近くに簡単な調理場があるのに気がついた。ここでお湯が沸かせるのか。おれは、部屋に戻った。気持ちが落ち着いて来たおれは、部屋の隅に一つだけ置いてある机の前に行くと、ゆったりとした椅子に腰掛けた。
昼の十二時になったので、おれは地下一階の社員食堂に行こうと思って、部屋を出て、エレベーターの前まで行った。ところが、どれだけ待っても、エレベーターが上がって来ない。そうか。昼休みになったばかりなので、エレベーターが満員なのか。と言うことは、階段を下りて行った方が早いのだな。やっと分かったおれは、非常口から階段を下り始めた。そうしたら、すぐ一つ下の階まで下りたところで、その階の仕事場から出てきたおじさんたちとばったりと出会った。いきなり、
「おやっ。社長の秘書か、あんたは?」
と言われて、おれはびっくりして立ち止まった。すると、別の人から、
「売店でパンを買って、すぐ戻って来た方がいいぞ。」
と言われたので、おれはあわてて、
「あ、分かりました。」
とか、答えると、階段を駆け下りて行った。そしたら何と、地下一階の食堂は長い行列ができていて、最後尾が階段の途中まで来ていた。これはひどい。さっきのおじさんに言われた通りにした方がよさそうだ。おれは、食堂の隣の売店でパンと飲み物を買うとすぐ、最上階の社長室まで戻って行った。

◆ ところで、隣の社長室への出入り口は、ほかにもあるのだろうか。昼食を終えたおれは、ふと気になって部屋を出て、廊下をあちこち回ってみたが、ほかには社長室への入り口らしいものは、見当たらなかった。
あ、そうだ。きょうはまだ、朝からうんちをしていなかったのだった。と、トイレの横を通り過ぎた時に、突然、おれは思い出した。午後の勤務時間が始まったら、さっそく社長が会議から戻って来るかも知れない。今のうちに、無理してでも出しておいた方がいいかも。と、思いつつ、おれはさっきのトイレの中に入って行った。ところがこれが、出そうで、ちっとも出ない。便座に腰掛けたまま、じーっとしていると、そのうち、外から人の気配がして来た。な、なんと、若い女たちが、ひそひそ話しをしながら、トイレの中に入って来る。こ、これは、まずい事になった。おれはじっと、息をこらした。
「しーっ、誰か入ってる?」
「誰も入ってるわけないでしょ。」
「そうよねっ。」
と言うことで、どうやら、鏡の前で化粧直しを始めたようだ。そうか。あいつら、いつも、昼食が終わったらここへ来て、化粧をしているのか。たぶん、すぐ下の階の経理課の女たちだな。と、思っていると、
「社長の秘書が今度、来たみたいね。」
「え、うそでしょ。」
「また社長室を待合室に使ってるだけよ。」
「あ、そうだったのか。」
と、そこで急に女たちの声が小さくなって、まったく、何を話しているのか聞き取れなくなってしまった。しばらくして、女たちがそっとトイレから出て行くのが分かった。
あいつらの今の話は何だったんだ・・・。すっかり、うんちを出す気分ではなくなったおれは、すぐにトイレを出て部屋に戻ると、机に向かって腰掛けたまま、じっと考え込んだ。なんか、変な所だな、ここは。初日から早々、おれは、先月までいた営業所に戻りたい気持ちになった。

2007.06.24 記事公開

土曜の午後 9 第九営業所

◆ 午後一時になったとたん、机の上の電話が鳴った。受話器を取ると、今から部長が面接をするから、人事部人事課にすぐ来いとの事だった。どうやら会議と言うのは、昼休み前には終わっていたようだ。おれは緊張して部屋を出ると、エレベーターに乗って、人事部人事課に向かった。
人事課に行くと奥の部長室に通された。入ってみると、部屋の奥の大きな机の向こう側に、女の人が腰掛けていた。えっ、人事部長ってこの人なのか。
「お待たせして済みませんでした。そこのソファに腰掛けてください。」
と言われて、すぐ目の前のソファに腰掛けると、女の人事部長は、部長の椅子から立ち上がって、おれの向かい側のソファに腰掛けた。眼鏡の向こうの目が光った。眼つきの鋭い、手ごわそうな雰囲気の人だ。
「入社してから、営業所を二か所回って来られましたね。」
と、さっそく聞かれたので、
「そうです。」
と答えると、部長は少し間を置いてから、
「所長さんからは、とても我慢強い方だとお聞きしていますよ。」
って、このおれの事なのか。どこで、そんな話になっていたんだ。おれは、内心、あきれた。部長はおれのようすをじっと見てから、
「そこで、あなたに、本社の第九営業所の管理の仕事をやってもらいたいのです。」
おや、本社にも営業所があったのか。それは、知らなかった。って、まさか、おれがそこの営業所長をやるって事なのか?何だか、どういうことなのか、話がよく分からない。と思っていると、部長は話を続けた。
「第九営業所では、残業や休日出勤は一切ありません。ほかの人たちが出勤して来る前に、営業所の鍵を開け、終業時間が来たら戸締りをして帰ってください。あとの事は、そこの人事課の人に聞いてください。」
という事で、面接はすぐに終わってしまった。
部長室を出ると、人事課の人から第九営業所の鍵を渡され、営業所の場所を教えてもらったが、要するに、この本社ビルのすぐ向かい側じゃないか。そんな近くに営業所があったのか。
「あ、この鍵って、ずーっとおれが持ってるんですかね。」
「そうです。毎朝、九時に営業所の入り口を開けて、六時になったら、閉めて帰ってください。」
「仕事で残っている人がいたら、どうするんですか。」
「いや、多分、いないと思いますけど。」
と言うことで、話を聞いていてもよく分からないので、とにかく行ってみる事にした。

◆ 営業所だから、当然、通りに面した所にあるのだろう、と思って行ってみると、どれだけ捜してもそれらしいものが見当たらない。どうもおかしい。と思っていると、通りから入って行く細い路地があるのに気がついた。まさか、こんな所を入って行くんじゃないだろうな。と思いながらも、曲がりくねった路地を進んで行くと、少し古い建物があった。え、まさかここじゃあ・・・。それに、窓には全部、ブラインドが掛けてあるし。と思って入り口まで行ってみると、「第九営業所」と書かれた小さな札が掛かっている。なんと。何なんだ、これは。
恐る恐るドアを開けて中に入ってみると、確かに会社のオフィスのように机が並んでいるが、中にいるのは皆、おじさんたちばかりじゃないか。しかも中は、しーんと静まり返っている。これは・・・。ところでおれは、どこにいればいいんだ。まさかあの、窓際に一つだけある机が、おれの席じゃないだろうな。と思っていると、ひとりのおじさんがおれの方を見て、おまえの席はあそこだ、と指で合図をしている。やっぱり、あそこか。ところで、おれはいったい、これから何をすればいいんだ? と思って、入り口の所で立ったまましばらく唖然としていると、とんとんと誰かに後ろから肩をたたかれた。振り向くと、ひとりのおじさんがいつの間にかやって来ていて、そっとおれに耳打ちしてくれた。
「ここはな、病気やけがで長い間、会社を休んどった人が、もとの仕事場に復帰する前に、体を慣らすために二、三週間通うところなんや。だから、隣どうしは皆、知らん人ばっかやから、話もせずに黙っとるんや。」
と言われて、やっとおれは納得した。しかし、こんな部署がうちの会社の中にあったとは知らなかった。あ、ところで。と、そこでおれはふと気がついた。入り口を入った所にタイムカードが無かったな。皆、どうしているんだろう。と思って、入り口の周りを見回してみると、受付のカウンターの上に、「出勤簿」と書かれたノートが一冊、置いてある。何と、ここではみんな手書きで、出勤時間をノートに書き込んでいるのか。

◆ やっと、窓際の席に腰掛けたおれは、おじさんたちの様子をしばらく眺めていた。仕事の書類らしき物をパラパラとめくりながら読んでいる人もいれば、何か熱心に書き物をしている人もいるが、その一方で、ずーっと新聞ばかりを読んでいる人もいれば、文庫本を読んでいる人もいたりで、まるで皆、やっている事がばらばらだ。ところで、どうも静かだと思っていたら、よく見ると、おじさんたちの机の上には、どこにも電話が無い。電話が置いてあるのは、おれの机の上だけだ。
一体、どう言う事なんだろう、これは。おれはしばらく考えた。たぶん、ここに来ている人たちは皆、相当長い間、仕事から離れていたのだろう。だからもう、職場の雰囲気には、ついて行けなくなっているのだ。それにしても、ひとりひとりの姿勢が皆、違っているように見える。自分の遅れを取り戻そうとして努力している人もいれば、自分の将来をまるであきらめてしまっているように見える人もいるし。

◆ なんか、おれって、空虚な仕事がよく回って来るな。何でだろうか。しばらく、周りのようすを見ていたおれは、いつの間にか、そんな事を考え始めていた。以前の営業所にいた時も、出勤日ではない土曜日の電話番をよくやらされたが、そこで電話がかかって来た事は一度も無かった。そして今度は、本社に人事になったと思ったら、何のことはない。病み上がりの人たちの仮の仕事場の管理人の仕事だ。
しばらく、いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていたおれは、だいぶたってから、あの土曜日の午後に出会った不思議な女の人の事をいつの間にか考えていた。ところがそれが、さっぱり頭の中に甦って来ないのだ。あの人の顔とか、声とか、姿とかが、不思議な事にまったく思い出せない。どうしてなんだ。
知らない間に時間が過ぎて行って、午後五時を少し過ぎた頃、ひとりのおじさんが席から立ち上がると、小さなかばんを持って、入り口の方に歩いて行った。あれれ、もしかしてあの人、もう帰るつもりなのか。まだ、勤務時間が少し残っているんだけど。と思って見ていると、カウンターの上のノートを開いて、さっさと何かを書き込むと、黙ってそのまま出て行ってしまった。あれーっ。こんなんでいいんだろうか。と思っていると、そのうちあちらこちらの席からぱらぱらと、ほかの人たちも立ち上がると、同じように、カウンターの上のノートに何かを書き込んで出て行く。あれよ、あれよ、と見ている間に、ほとんどの人が五時半頃には出て行ってしまって、残っているのはひとりのおじさんだけになった。あの人、ずーっと文庫本を読んでいるな。よっぽど、本を読むのが好きなんだな。
六時のチャイムが鳴ると、最後まで残っていた人が立ち上がり、ノートに書き込みをして、出て行った。あの人だけ、えらく几帳面だな。窓のブラインドのすき間から外を見ると、最後までいた人が自転車に乗って帰って行くところだった。そう言えば、玄関先に自転車が一台だけ置いてあったが、あの人のだったのか。

◆ 最後の人が帰って行ってしまうと、おれは、心の底からほっとした。長い一日だった。ああ言う人たちも、世の中にはいるのだ。誰もいなくなった机の列を眺めながら、おれはしみじみと思った。念のため、カウンターの上のノートを開いて見ると、全員しっかり、退出時間が午後六時ちょうどになっている。そして、出勤時間は、全員しっかり、午前九時ちょうどになっていた。
第九営業所の入り口に鍵を掛けて、狭い路地を通って、通りに出てみると、通りの向かい側の本社ビルからは、仕事を終えた社員たちが続々と出て来て、歩道は人でいっぱいになっていた。そうだったのか。やっとおれは、分かった気がした。六時の定刻にこの営業所を出たら、帰りの道は、本社の社員たちと顔を合わせながら、地下鉄の駅までずっと歩いて行かなくてはならない。だから、あの人たちは早めに帰ったのだ。そして、最後まで残っていたあの律儀な人。あの人は多分、少し遠いJRの駅まで自転車で通っているのだろう。だから、六時にここを出ても、途中で本社の社員たちを全部、追い抜いて行ってしまうから、帰りの電車の中では、知っている人とは顔を合わせないでいられる。そういう事だったのだ。
そう言えば、おじさんたちの中で、おれが以前、見かけた事があるような人は、誰もいなかったな。もしかして、おれの知っている人間がいない事を確かめた上で、おれにここの管理を任せる事にしたのだろうか。本社の社員たちの間で揉まれながら、地下鉄の駅に向かって歩いていたおれは、そんなことをぼんやりと考え続けていた。ひょっとしたら、先週まであそこの管理を担当していたやつは、今週からそいつの知っているおじさん、そう、以前の上司とか、が入って来る事になったので、担当をはずされたのかも知れない。それで、おれに急きょ、その担当が回って来たのだ。きっと、そう言うことなのだろう。

2007.07.10 記事公開

土曜の午後 10 土曜の午後

◆ 次の日の朝、九時少し前におれは第九営業所へ出勤した。入り口の鍵を開けて中に入ると、窓際の自分の席に腰掛けて、おじさんたちが出勤して来るのを待った。やはり、思っていた通り、九時を過ぎてもなかなか、人はやって来ない。九時半頃になってやっと、自転車のおじさんが入って来た。
「おはようございます。」
と、おれが声をかけると、さっさと出勤簿に出勤時間を書き込んだおじさんは、そのまま黙って自分の席まで行って、椅子に腰掛けると、かばんの中から文庫本を取り出して、さっそく昨日の続きを読み始めた。まったく、マイペースな人だな。ところで、ここでは、朝のあいさつはやらないのか?そう言えば、昨日、帰る時も、誰も何のあいさつもしないで、皆、黙って帰って行ったな。
それからしばらくたって、ぽつりぽつりと、ほかのおじさんたちが出勤して来たが、何だかペースがのろい。昨日と同じ顔ぶれがやっとそろった時には、とっくに十時を過ぎていた。何ともけじめの無い職場だ。いつまで、こんな所の管理人をやらされるのだろうか。あの人たちは、二、三週間もしたらここを出て行ってしまうのだから、気にならないのかも知らないが、おれはこれからずっと、毎週毎週、入れ替わっては入って来るおじさんたちの番をしていなくてはいけないのだ。だんだんと気が重くなって来たおれは、机の上のカレンダーをじっと見つめていた。そして、もう少ししたら春の連休がやって来る事に、やっと気がついた。連休になったら、どこか思いっきり遠くに行って、気分を発散して来よう。だが、連休が終わって、またここに戻って来た時の事を考えると、やっぱり気が重い・・・。
しばらく、ぼんやりと考え込んでいると、そのうち、炊事場の方からにぎやかな笑い声が聞こえて来た。おや、おじさんたちが、珍しく、何か楽しそうに話をしているぞ。何なんだろう。と思っていると、そのうち、仕事場の中にコーヒーの香りが漂って来て、コーヒーカップを手にした数人の人たちが、満足そうな顔をして、それぞれの席に戻って来た。そうか。ここは、女子社員がいないから、あの人たちは炊事場まで行って自分でお湯を沸かして、コーヒーを入れて飲んでいるのだ。ところで、ほかの人たちは、コーヒーは飲まないのか?と思って見ていると、少したってから、今度は別の人たちが、ぱらぱらと立ち上がって、やはり炊事場に向かって行く。そして、しばらくすると、お茶の入った湯飲み茶碗を手にして、自分の席に帰って来た。あの人たちは、お茶が飲みたかったのか。いろいろと、好みが違うな。
そのうち、昼休みの時間が近づいて来た。そう言えば、この人たちは、昼食はどこで食べるのだろうか。たぶん、本社の地下一階の食堂には行かないだろうから、近くのそば屋かラーメン屋にでも出かけて行くのだろう。と思っていると、十二時のチャイムが鳴っても、誰も外に出て行こうとしない。しばらくすると、あちらこちらの席の人たちが、かばんの中から弁当箱を取り出して、弁当を開けて食べ始めた。そうか。外に食べに出ると、本社の社員たちとどこかで顔を合わせてしまうから、この人たちは皆、家で弁当を作ってもらって来て、ここで食べているのだ。何となく、気の毒な気がして来た。

◆ とにかく、昼休みの時間だけは、ここを離れさせてもらうぞ。おれは立ち上がると、第九営業所を出て、本社の食堂に出かけて行った。ところが、地下一階の食堂は、とんでもないくらい長い行列が出来てしまっていた。一目見て、並ぶ気がしなくなったおれは、隣の売店でパンと飲み物を買うと、食堂の一番奥のテーブルがガラ空きになっているのを見つけて、そこに行って、ひとりぽつんとパンを食べ始めた。すると、そのうちどやどやっと、おいしそうな食事の載ったトレイを持った女子社員たちがやって来て、たちまちのうちに、おれの周りの席は女たちによって埋め尽くされてしまった。
「結局、社長の秘書って、決まらなかったの?」
「そうみたい。これからは、専務の部屋が、社長室の代わりになるみたいよ。」
と、いきなり話を始めたので、おれは、どきっとした。こいつら、もしかして、昨日の昼休みに、あの社長室の隣のトイレに化粧直しにやって来たやつらか?
「と言うことは、社長室はあのまま空き部屋になるわけ?もったいないわね。」
「だったら、経理課の部屋にしちゃえばいいじゃない?」
「しーっ。」
と、そこで女たちは急に黙って、静かに昼食を食べ始めた。おれが、すぐ隣で聞いているので、話をやめたんだな。なんだか、ここの食堂も居づらい所だ。
昼食を終えて本社ビルを出たおれは、しばらく町の中をぶらぶらと回ってから、一時少し前に第九営業所へ戻って来た。おじさんたちは、誰も外には出なかったみたいで、相変わらず、お互いに黙ったままで、お茶やコーヒーを飲んでいたり、音楽を聴いていたり、中には携帯テレビを見ている人もいた。そして、一時のチャイムが鳴ってしばらくすると、おじさんたちはまた、午前中にやっていた事の続きをそれぞれやり始めた。そしておれは、机の上のカレンダーをじっと見つめながら、今度の連休をどうやって過ごそうかと再び考え始めた。だが、やはり連休が終わって、ここに戻って来てからの事を考えると、気が重くなって来て、いつまでたっても何も考えがまとまらない。どんどん時間が過ぎて行って、午後五時頃になると、また、昨日と同じようにぽつり、ぽつりとおじさんたちが帰り始めて、五時半頃には、自転車のおじさん以外は皆、帰ってしまった。
六時になって、最後までいた人が自転車に乗って帰って行くのを見届けたおれは、そのまま入り口のすぐ近くのソファに、どっと倒れるように腰掛けた。そしてぼんやりと、誰もいなくなった机の列を眺めたその時、たちまちのうちに、ちょうど一年前の連休の合間の土曜日の午後のあの時の出来事が、頭の中に甦って来た。もしかしたら、今度の連休の間の土曜日の午後二時になったら、ひょっとしたら、あの人がここにやって来るかも知れない。そんな思いが、突然、湧き上がって来た。何だか、そんな気がする。

◆ 連休の真っ最中の土曜日に、本社の上司に無断で営業所に出てくる事を考え始めたおれは、なぜか、心が落ち着かなくなった。もし、今度の連休にここに出てくる事にしたら、それは上司に命じられたからではなく、仕事をするために出て来たのでもなく、自分の勝手な行動でしかない。こんな事、やってもいいのだろうか。何となく、不安になって来た。それから毎日が過ぎて行って、やがて、連休がやって来た。
落ち着かない気持ちのままで連休の前半を過ごしたおれは、いよいよ、土曜日を迎えた。おれは、午後二時少し前に、第九営業所に入った。入り口の鍵を開けて、中に入った時、何か、やってはいけない事を自分がやっているような気がして来て、妙に怖くなった。部屋の電灯をつけて、窓際の自分の机の所まで来たおれは、留守電が何件か入っている事に、すぐ気がついた。こんな暇な仕事場に、連休の最中に電話がかかって来たなんて、何か変だぞ。おれはすぐに、留守電の記録を再生してみた。すると留守電は、今日の昼少し前から何度も繰り返しかかって来ていて、伝言は何も入っていなかった。これは明らかに、この仕事場に今日は誰も人が来ていない事を確かめるための電話だ。おれはそう直感した。もしかして、誰かがそのうち、ここに何かをしにやって来るのだろうか。おれは怖くなった。やっぱり今日は、ここに来るべきではなかったのだ。今すぐ、ここを出て行かなければ・・・。
おれは急いで、電話を留守番モードに戻すと、部屋の電灯を全部消して、入り口を出ようとした。ところが、窓のブラインドの隙間から外を見ると、何と、あの眼鏡を掛けた女の人事部長がこちらにやって来るところだった。何て事だ。さては、連休の合間に、ここで秘密の役員会議でもやるつもりだったのか。だめだ。もう、逃げ出すわけにはいかない。この部屋の中のどこかで、じっと隠れているしかない。まさか、こんな事になってしまうとは。
おれは、あわてて入り口のドアを中からロックすると、部屋の一番奥の席の机の下に、急いで隠れた。

2007.07.15 記事公開

土曜の午後 11 秘密の会議

◆ 机の下に身を隠すとすぐ、入り口の鍵を開ける音が聞こえ、そして、ドアが開いて、誰かが中に入って来た。入り口を少し入ったところで足音は止まった。おや、電灯のスイッチはつけないのだろうか。窓には全部、ブラインドが掛かっているから、このままでは部屋の中が暗いと思うが。しばらくたつと、再びドアの開く音と、別の誰かが入って来る足音が聞こえた。
「お待たせしました。」
と、男の声が聞こえるとすぐ、
「どうぞ、そちらにお掛けください。」
と、女の声が聞こえた。人事部長と誰かとが、机をはさんで向かい合って何かを始めるようだ。
「長い間、ご苦労さまでした。」
と、人事部長が言うと、
「いや、別に大した事は何もしてませんよ。」
と、男が答えた。
「それで、どんなようすでしたか。」
と、人事部長が聞くと、男はしばらく考え込んでいるようだったが、やがて、
「そこの列の四番目の人は、相変わらずいつも、一番遅れてやって来て、一番先に帰って行ってしまうな。」
な、なんだ、これは。あの男、ここに毎日通っているおじさんたちのうちの誰かなのか。もしかして、あの自転車に乗って通って来るおじさん?まさか。一日中、わき目もふらずに文庫本を読んでいるとばかり思っていたら、実は、しっかりとほかの人たちの様子を観察していたのか。要するに、人事部長のスパイだったわけだ。
「あの人は、連休が明けたらもう、ここへは来ないわ。もしかしたら、会社を辞めるつもりでいるのかも知れない。」
「と言うことは、専務とはつながりは無いわけか。」
「そう言うことね。」
なんだと。ここに通っているおじさんたちのうちの誰が、専務の側についているのかを判定する会議だったのか、これは。ところで、専務って社長の実の弟じゃないのか。確か、前の営業所にいた時、先輩たちがそんな話をしていたような。そうそう。社長が病気持ちなので、しょっちゅう、社長の仕事をあの人が代理してやっているはずなんだ。しかし、それがどうかしたのだろうか。
「それから、その列の二番目とあの列の三番目、そしてそこの列の一番目。この三人は必ず、十一時少し前と三時少し前に、一緒にコーヒーを入れに、炊事場に出て行く。」
「その三人は、専務とは全くかかわりの無い人たちよ。」
「そして、その三人が戻って来ると、すぐにお茶を入れに出て行くやつが、ざっと四、五人はいる。」
「それは?」
「まず、その列のそこの席のやつ。それから、あそことあそこ。それから、あそこ。いつも、席を立つ順番が決まっているんだな。」
「間違いなく、専務の回し者ね。でも、そこの席の人も仲間に入っていたとは、意外だったわ。」
そうか。だんだん、分かって来たぞ。あの昼間のおじさんたち、猫をかぶっているけれど、実は皆、この会社の重要な役職を経験して来た人たちなのだ。だから、あの人たちがこれから、もといた仕事場に復帰した時、社長の側につくか、専務の側につくかで、この会社の先行きが変わって行ってしまう。なるほど、そう言う事だったのか。
「それから、実は・・・。」
と、そこで男の口調が少し変わった。
「あの若い管理人が、昼休みに昼食を食べにここを出て行った後、必ず、あの窓際の席にやって来て、机の上に置いてある書類を全部、デジカメで撮っているやつがいる。みんな、見て見ぬふりをしているけどね。」
何だって。誰なんだ、そいつは。
「一体、誰なの。そいつは?」
と、そこで急に二人の会話の声が小さくなって、何を話しているのかが聞き取れなくなってしまった。

◆ それからだいぶ時間が過ぎて、
「それでは、これで失礼します。ここに来る事はたぶん、もう無いでしょう。」
「本当にご苦労さまでした。」
と言うことで、やっと長い秘密の会議が終わって、男が入り口から出て行った。やれやれ、やっと終わったか。おっと、まだあの人事部長が残っているぞ。早く、ここから出て行ってくれないかな。と思っていると、床の上を横切って行く足音が聞こえた。どこへ行くのだろう。どうも、窓際のおれの机の方に歩いて行ったみたいだが。何かまだ、他にやる事があったのか?と思っていると、
「メッセージは、ありまっせん。」
と、電話機から声が聞こえた。
「変ねえ・・・。」
と、人事部長が何かぶつぶつ言っている。何か、どうかしたのだろうか。あ、もしかして。そうか、昼の間にかかって来ていた留守電は、全部、あの人事部長がかけていたのか。しまった。おれがいったん、留守番モードを解除して、留守電を全部、再生してしまったから、きっとその時、留守電の記録が全部消えてしまったんだ。という事は・・・。これは、とんでもなくやばい事になりそうな予感が・・・。
「誰か、ここに来たのかしら。」
今度は、さっきよりずっとはっきりと、部長の声が聞こえた。部長は、大急ぎで入り口まで走って行くと、部屋の全部の電灯のスイッチをつけた。突然、部屋の中が照明に照らし出されたように明るくなった。
「誰かいるのっ?!」
悲鳴のような部長の声が響いた。もうだめだ。おれは観念した。それから、ほんの少したって、
「そこにいるのは、だれなのっ!」
と、まるで雷が落ちたような叫び声が聞こえた。とうとう、見つかってしまったようだ。おれの人生も、これでついに終わったか。おれは、すべてをあきらめて、机の下から這い出すと、
「申しわけありませんでした。」
と、人事部長に向かって頭を下げた。

◆ 「あなただったの・・・。」
机の後ろから立ち上がったおれを見て、人事部長は一瞬、言葉を失った。が、すぐ次の瞬間、
「ここに来なさいっ。」
と、叱りつけるような声が響き渡った。人事部長の全身が、怒りで震えているのが分かった。これは、ひょっとすると、おれがこの会社を辞めさせられる、というだけでは済まないような事になるのかも。おれは、言われる通り、部長の立っているすぐ目の前の席に、神妙になって腰掛けた。
「いったい、誰からの指図で、こんな事をやったの?」
人事部長は、向かい側の席にゆっくりと腰掛けると、おれをにらみつけるようにして言った。
「こんな事」って、おれは別に、何も変な事をやってはいないんだけど。それに、指図って、何の事だ。部長の言う事が、何の事なのかよく理解できなかったおれは、
「あ、あの。たまたま、偶然、ちょっと用があって、ここに寄ってみただけなんです、が。」
と、ついつい、適当なことを言ってしまうと、
「うそでしょう。」
と、人事部長は恐ろしい目つきで、再びおれをにらみつけた。これじゃあ、まるで、大蛇ににらみつけられた蛙と同じだな。と言うか、どうやらおれが、専務の手先に回っている、と、完全に疑われているみたいだな、これは。
「いや、本当なんです。おれは、今日、まったく何も知らないで、ここに来たんですよ。」
と、おれは、悲しげに言い訳をしたが、
「だったら、どうして隠れたりするの?」
と、追い詰める人事部長の言葉に、もはや何も弁解が出来なくなってしまった。分からない。そんな事、聞かれたって。とっさに、隠れようと、勝手に体が動いてしまったのであって、そんな事、言葉では説明できない。ああ、どうしたらいいのだろうか。もはやおれは、完全に、頭の中の思考が止まってしまっていた。いつの間にか人事部長は、半分、あきれたような表情で、おれの方を見つめていた。どうやら、おれが、どうにも融通のきかないバカなやつだと、決めつけられてしまったみたいだ。
長い沈黙の時間が続いた後、突然、人事部長は立ち上がって言った。
「分かったわ。今日の事は、もう、何も無かったことにしてあげましょう。」
意外なことばに、思わずおれは内心、ほっとした。すると、
「その代わり・・・」
と言って、再び部長はおれの顔をじっと見つめた。
「罰として、連休明けから毎日、本社のトイレ掃除をひとりで全部、地下一階から最上階まで、一日中やっていてもらいましょう。ま、いずれにしても、ここの営業所の管理の仕事は、もう、あなたに任せるわけには行かなくなったわ。」
「わ、分かりました。どうも、いろいろと、ご迷惑をおかけしました。」
と、おれはすぐに立ち上がると、人事部長に頭を下げ、そして、持っていた営業所の鍵を渡した。
「さ、もう帰って。」
「はい。」
おれは人事部長に礼をすると、急いで営業所を出て、真っ直ぐ、地下鉄の駅に向かって足早に歩いて行った。思いもよらない、とんでもない悪夢の中に突き落とされてしまったおれは、頭の中が真っ白になったままで、家に帰って行った。

◆ 連休の残りの期間、おれはずっと家の中にこもったままで、呆然となってうなだれていた。そして次第に、腹の底から怒りが湧き上がって来た。おれは何も、悪い事なんかやっていない。どうして、犯罪者のように扱われなきゃいけないのだ。いつか必ず、仕返しをしてやる。いまに見ていろ・・・。

2007.07.18 記事公開

土曜の午後 12 化粧室

◆ 連休明けの初日。おれは長靴を履いて、朝から本社ビルのトイレ掃除を始めた。「大変ですね。」とか、「がんばれよ。」とか、「こんなひどい仕打ちを受けるなんて、かわいそうね。」とか、励ましてくれたり、同情してくれたりする人が、きっといるだろうと思っていたが、通り過ぎて行く人たちは皆、見て見ぬふりをしていて、夕方になるまで一日中、へとへとになるまで働き続けたと言うのに、ついに一人も、誰も声をかけてくれる人はいなかった。おかしい。世の中って、こんなものなのか?何か間違っているんじゃないのか。
やっと六時になったので、タイムカードを押しに人事課に行ったら、
「部長から話があるそうだから、ここで待っていろ。」
と言われた。何かまだ、言いたい事があるのか?少し待つとすぐ、おれは人事課の奥の部長室に通された。
「失礼します。」
と、礼をして部屋の中に入って行くと、眼鏡を掛けた部長は窓際の部長の席に腰掛けていた。
「そこに座って。」
と言われて、おれは部長の大きな机のすぐ前の椅子に腰掛けた。何かまた、尋問の続きが始まるのだろうか。おれは、いやな気分になった。部長は大きなため息をつくと、
「どうも、おかしいわねえ。」
と、独り言のように話し始めた。
「いつもだったら、どうしてあんな事をやらせるんだ!って、専務がすぐに怒鳴り込んで来るはずなのに、きょうに限って、いつまでたっても、何も言って来ないなんて。」
と、しばらく首をかしげていたが、やがて、おれの方をじっと見て、
「本当にあなたは、誰からも指図を受けていなかったの?」
と、再び問い詰めて来た。
「だから、何度も言っているでしょう。たまたま、偶然、何の気無しに、ちょっとあそこに寄ってみただけなんですよ。」
と、おれが答えると、
「じゃあ、何をしに、あそこに行ったの?何か、やる事でもあったの?」
と聞かれて、おれはまた、何も答えられなくなってしまった。もちろん、あの日は仕事をするためにあそこに行ったわけじゃない。ある人があそこにやって来るかも知れないと思ったから、それを待つために行ったのだ。だが、そんな事は言えない。今まで誰にも話していない事だし。ああ、困った。どう答えたらいいんだ。
「じゃあ、何時頃にあそこに行ったの?」
おれが答えに窮しているのを見て、今度は少し優しい口調で部長が聞いた。
「午後二時少し前です。」
「何ですって!」
とたんに部長は、大きく目を見開いて、おれをにらみつけた。
「私が二時になったらあそこに行く事をやっぱり、知っていたのねっ。」
「い、いや、そんな事、全然、知りませんでした。」
「うそですっ。」
部長の激しい憤りの言葉に、おれは呆然とした。そして、再びまた、沈黙の時間が続いた。長い時間が過ぎた後、
「もういいわ。」
と、部長がぽつりと言うと、おれの目を真っ直ぐに見た。
「私が悪かったわ。疑ってごめん。」
ど、どうしたんだ。いったい、何があったんだ。思いもよらない部長の言葉に、おれは腰を抜かすほど驚いた。何がどうなっているのだか、まるで、さっぱり分からない。
「それから、明日からのあなたの仕事だけど・・・。」
と、部長が話を続けたが、その時初めて、部長の目に涙がにじんでいるのに気がついた。え?うそでしょう。とか、思っていると、
「私の秘書をやってくれる?」
「え?」
と言うことで、本社のトイレ掃除の仕事は一日で終わって、次の日からは、おれが人事部長の秘書の仕事をやる事になった。これって要するに、人事部長が第九営業所の中にスパイを送り込んでいた事をおれが知ってしまったために、もはやおれを会社のほかの部署に回すわけには行かなくなって、自分の目の届く所におれを置いておくしかなくなってしまった、という事なわけだが。それでいつの間にか、おれが人事部長の秘密を守る代わりに、人事部長はおれを守る、と言う、なんとなく、暗黙の了解のようなものが出来上がってしまったのだった。

◆ 次の日の朝、さっそく人事課に出勤すると、なんとなく中の雰囲気がそわそわして、殺気立っていた。何でも今日は、午前中に社長が会社にやって来るらしい。と言うことは、ふだんは社長は、会社には出て来ないのか? その辺をうろうろしていると、いきなり部長に呼びつけられた。これから、社長室に行くので、荷物を持って一緒について来なさい、と言われた。そう言えば、今日の部長は、今までより少し派手な服を着ているな。
部長と一緒に、最上階でエレベーターを降りると、
「こっちに来て。」
と言われて、後について行くと、社長室に真っ直ぐ行くのかと思ったら、あのトイレの方に歩いて行くので、
「あっ、そこ、女子トイレじゃなかったですか?」
と、おれがあわてて言うと、
「なに言ってるの。」と、急に部長が笑い出した。
「どこにもトイレだなんて、書いてないでしょ。」
と言って、豪華なドアを開けて中に入ると、すぐ、あの大きな鏡の前に立った。
「さ、その化粧箱の中に入っている物を全部、ここに並べて。」
と言われて、おれは何の事だかさっぱり分からずに、持って来た荷物を開けてみると、なんと中には、化粧道具とタオルやらガーゼやらとが、びっしりと詰まっている。なんと、こんな物を運ばされていたのか。
「ちょっと、このタオル、持っていてくれる?」
と言われて、おれが大きなタオルを手に持ったまま立っていると、人事部長は眼鏡を外して、お湯で顔を洗い始めた。それにしても、女が顔を洗う時は、なんでこんなに時間がかかるんだろうか。うんざりするほど長い時間、顔を洗っていた人事部長が、いきなり、
「タオルっ。」
と言って、手を出したので、おれが持っていたタオルを手渡すと、部長は、ゆっくりと丁寧にタオルで顔を拭いてから、鏡に映った自分の顔をじっくりと見詰めた。その時、おれは、初めて、鏡に映った部長の顔をはっきりと見た。
まさか。信じられない・・・。鏡の前には、ちょうど一年前の連休の合間の土曜日の午後に初めて出会った、あの若い女が立っていた。

◆ 「ちょっとこれ、また、持っていてくれる?」
と言って、目の前の女が、顔を拭いたばかりのタオルをおれの方に差し出した。そして、その後すぐに、おれの方を振り向いた。
「ちょっと、どうしたの。ちゃんと受け取ってよ。」
やっぱり、おれの方を向いている女は、一年前の土曜日の午後に出会った、あの時の女の人だった。そんな。これは、何かの間違いでは。いったい、どうしたらいいのだ。その時おれは、自分がこの宇宙の外に弾き飛ばされて行くのを感じた。そして、人事部長の言っている事が、まったく、耳に入らなくなった。
「どうしたの。どこか具合でも悪くなったの?」
「あ、いや、どこも悪くないです。」
まるで、魂が抜けてしまったかのように、おれはロボットのように答えた。
「しょうがないわね、もう。」
と言ってから、人事部長はおれの事など気にもせず、鏡の前でのお化粧に熱中していった。長い時間が過ぎた。
「あ、いやだ、もうっ。急がなくちゃ。」
やっと化粧が終わった部長は、時計を見たとたん、そう言ってあわて始めた。
「じゃ、ここにある物をみんな、バッグに入れて、私の部屋に運んどいて。あ、このタオルは濡れているから、一緒にしちゃだめよ。」
再び眼鏡を掛け直した人事部長は、そう言い残すと、さっさと化粧室から出て行ってしまった。おれは、鏡の前に並べてある物を全部、バッグの中に入れると、タオルを手に持って、エレベーターに乗って、人事部の部屋に戻って行った。そして、部屋の窓からぼんやりと、外の景色を眺めた。なんだか、生きている希望が、急に、全部無くなってしまった気がするな。おれは、心の中でそうつぶやいた。

2007.07.20 記事公開

土曜の午後 13 尋問

◆ 時間が過ぎて、そろそろ昼休みが近づいて来た頃、突然、人事課の人がおれを呼んだ。
「中山君、社長が君に話があるそうだ。すぐ、社長室に行ってくれ。」
人事課の人の緊張した面持ちから、おれはただならぬものを感じた。なんでだ。おれは今まで、一度も社長と会った事が無いし、社長もおれの事は何も知らないはずなのに。急にどうしたんだ。わけの分からないまま、おれはエレベーターに乗って社長室に向かった。もしかして、あの人事部長の秘密の会議をおれが盗み聞きしていた事が、社長に伝わってしまったのだろうか。

おどおどしながらドアを開けると、入り口の秘書の部屋は、以前とはがらりと様子が変わってしまっていて、部屋の奥のドアのすぐそばには立派な車椅子が置いてあって、その横では、白衣を着た二人の若い男が、退屈そうに椅子に腰掛けていた。その服装から、どこかの病院のリハビリの担当者である事が、すぐに分かった。社長はあの車椅子に乗って、二人の病院の職員に付き添われて、今日、ここにやって来たのだ。 恐る恐るおれは、部屋の奥のドアをノックした。しばらくしてドアが開くと、目の前に現れたのは、あのまぼろしの謎の女、じゃなくて、人事部長だったが、なぜか、眼鏡を掛けていない。化粧室を出て行った時は、眼鏡を掛けていたはずだったが。
「社長にきちんと礼をしてから、机の前の椅子に腰掛けるのよっ。」
人事部長は心配そうにおれの顔を見ながら、小声でそっと言った。
「中山です。失礼します。」
おれは、開いたドアの前に立って挨拶をすると、部屋の中に入ってドアを閉めた。部屋の奥の窓際には大きな社長の机があって、その向こうの大きな椅子に、はじめて見る社長が腰掛けていた。社長は青白い顔の白髪の男で、大きなぎょろりとした目で、おれをにらみつけた。こ、これは。おれは、思わず息を飲んだ。こんなでかいつらをしたおっさんは、生まれて初めて見た。それにしてもまるで、鬼のようないかつい顔をしている。こんなおっかない人と、よくこの会社の役員たちは付き合っていられるな。まるで、地獄のえんま様の前に引っ張り出された罪人のように、おれは社長の机の真ん前の椅子に腰掛けて、小さくなっていた。部屋の中は、社長と人事部長とおれの三人だけだった。ほかの役員たちは、用が終わってさっさと帰って行ってしまったみたいだ。
「おい。ちょっと、この部屋から出ていろ。」
社長が、すぐそばに立っていた人事部長の方を向いて、うなるような声で言うと、人事部長は黙って部屋から出て行った。わっ、唯一、頼りにしていた人がいなくなってしまった。一体、これから、何が始まるんだ。と思っていると、社長は今度は、おれの方を向いて、
「おい、お前。ドアをロックしとけ。」
と、人事部長が出て行ったばかりのドアをあごで指した。
「は、はい。分かりました。」
おれは、おどおどしながら立ち上がると、あわてて部屋のドアをロックした。やれやれ、一体これから、何の尋問を始めるつもりなんだろうか。
しばらく、おれのようすをじっと見ていた白髪の社長は、
「君は、あちこちの営業所をいくつも回されて来たらしいな。」
と、ぶっきらぼうに言い放った。な、なんだ、この人。いきなり、かちんと来るような事を言って来るな。おれは、入社してから、二つしか営業所は回って来ていないぞ。それも、はじめに配属された営業所が、統合で閉鎖される事になったから、次の営業所に移ったのであって、実際は、一つの営業所にずっといたのと同じなのに、まるでおれが、まともな営業の仕事ができなくて、邪魔者扱いされて、あちこち回されて来たみたいな言い方じゃないか。むかっと来るのをこらえて、おれは黙っていた。すると、
「まあ、そんな事は、どうでもいい事だが。」
と、どうでもいい事なら、最初から言わなくたっていいじゃないか。いったい、おれに何が言いたいんだ、この人は。少しずつおれは、いら立って来た。すると、
「ところで君は、上司の許可無く、勝手に休みの日に、会社に出て来たりするのかね?」
と、突然、社長は、やや興奮した口調で話し出した。おれは、どきっとした。やっぱり、あの秘密の会議をおれが盗み聞きしていたのをとっちめるつもりだったのだ。困った。これは、とてつもなく長い尋問になるぞ。おれは、覚悟を決めた。
「いえ。今まで自分は、めったに、そう言うことはして来ませんでした。」
と、おれが口を開いて答えると、
「一度も無かったわけじゃ、ないだろう。」
と、社長は目をぎょろりとさせながら、興奮した面持ちで聞き返した。休みの日に勝手に会社に出て来る事なんて、誰だって、普通にやっているじゃないか。しつこいな、何だか。おれは、困った。もういい。はっきりと答えれば、いいんだろ。
「一度だけ、連休の合間の土曜日の午後二時少し前に、上司の許可無く、無断で第九営業所に出勤しました。」
と、おれが正直に答えると、社長は、不意を突かれたかのように、一瞬、うろたえたようすを見せたが、すぐに、
「上司が知らない間に、部下が勝手に休みの日に、会社に出て来る事を、君はどう思うかね。」
と、再び聞き返した。
「あまり、好ましい事ではないと思います。」
と、おれが答えると、社長はやや、拍子抜けしたようすで、しばらくぽかんとしていた。そして少しずつ、呆れたような表情に変わって行った。もしかしておれが、骨の無い、優柔不断な人間に見えたのだろうか。
「分かった。わざわざ呼び出して、すまなかったな。さ、もう、自分の仕事場に帰ってくれ。あ、それから、人事部長を呼んでくれんか。隣の部屋で待っているはずだ。」
しばらくして、大きな顔の社長が突然、そう言ったので、おれは、ちょっと驚いた。もう、帰っていいのか。尋問と言うほどのものでもなかったな。立ち上がって、社長に礼をすると、おれはドアのロックをはずして社長室を出た。そして、隣の秘書の部屋で待っていた人事部長を呼んだ。いつの間にか昼休みが、ほとんど終わりかけていた。おれは急いで地下一階の食堂に行くと、すっかりがら空きになったテーブルでラーメンを食べた。そして、食べ終わると、人事課の部屋に帰って行った。
何のためにさっき呼び出されたのか、未だにさっぱり分からない。大して何もしつこく聞かれなかったし。おれがどんな人間なのか、会って確かめたかっただけなのだろうか。そうしたら、思っていたほどはみ出したやつでもなかったので、さっさと帰された。たぶん、そんな事なのだろう。
何もする事が無かったおれは、人事課の部長室の入り口のすぐ近くの自分の席で、ずーっとぼんやりとしていたが、いつまでたっても、部長は戻って来なかった。とうとう六時になったので、おれはタイムカードを押して帰宅した。

◆ 次の日、会社に出勤すると、部長は会社には来ていなかった。一体、どこで、何をしているのだろうか。部長がいないと、何の仕事をしたらいいのか分からないのだが。おれは少し、困ってしまった。いつまでたっても、部長は姿を見せず、そのうち昼休みになった。ひょっとして、このまま今日は出て来ないのだろうか。それにしても、何の仕事の指示もおれに伝わって来ないなんて、何だかちょっと変だな。だんだん、少しずつ、変な予感がし始めた。
午後の五時頃になって、やっとおれに電話が来た。人事部長からだった。
「突然だけど、あなたはあすから三週間、会社を休んでもらう事になったの。」
「え、また、それは、どう言うことなんですか。」
おれは驚いた。
「だいじょうぶ。あなたの今月の給料は一切、減らないから。それから、有給休暇の日数も全然、減らないから安心して。三週間の間、どこか遠くに旅行に出かけて行ってくれてもいいのよ。その間、会社からは何も呼び出す事は無いから、のんびりとしていて。」
「一体、なんでそうなったのか、理由がよく分からないんですが、おれのせいですか?」
「え、何のこと言ってるの?あ、そうか。いろいろとあなたに迷惑をかけてしまったから、という事よ。だから、安心して、ゆっくり休んでいて。」
と言うことで、電話が切れた。何かあわててかけて来た感じだった。電話が終わるとすぐ、人事課の人がおれのところに来て、三週間が過ぎた後の最初の月曜日の朝九時に、必ず会社に出て来ているように、と念を押された。

六時になるとおれは、タイムカードを押して会社を出た。突然、長い休暇をもらったおれは、まだ、何の仕事も任されていなかったからか、人事課の人たちは、まるでおれの事など構っていない様子だった。何だか、なるべく遠くの方に行っていてほしいような言い方だったな。ひょっとして、このおれが邪魔になって来たのだろうか。だんだんおれは、不安になって来た。ここに来てから、わけの分からない事で振り回されっぱなしだな。営業所にいた時の方がよかった。
一体、どうして、こういう事になったのか。これから先、自分がどうなって行くのか。急に分からなくなったおれは、不安で、とてもどこかへ旅行に行くような気にはなれなかった。それに、そんな金も無いし。しかたが無い。どこか景色のいい所を探してドライブか、サイクリングにでも行くか。あ、そうだ。海へ釣りをしに行くのがいいな。釣りなら、三週間の間、毎日やっていても飽きないだろう。それがいい。おれは、そう決めた。

2007.10.24 記事公開

土曜の午後 14 再び海へ

◆ 次の日からおれは、晴れた日は、釣りの道具を持って海へ出かけて行った。こんな長い休暇をもらったのは、この会社に入社して以来、初めての事だった。ところで、この休みがもらえたのは、例の第九営業所にスパイが入っていた事が、おれの口から広まるのを人事部長とあの社長が、恐れたからじゃないのだろうか。釣りをしながらおれは、そんな事を思った。だとしたら、この休みが終わって再び会社に戻って来た時、おれは一体、どうなるんだ。そう考えると、再びおれは不安になった。それでも、海の景色は、おれの中に今までたまっていた疲れを吸い取って行った。そして、次第に、もうすぐ自分は、今の会社をやめる事になるのではないのか、と言う気がして来た。何か、今までとは違った、全く新しい人生がもうすぐ始まるような予感がして来た。

◆ 長かった休暇がいよいよ終わりに近づき、最後の週末の土曜日になった。いいかげん、海の釣りに飽きて来ていたおれは、この日は何もする予定が無く、朝から家でぼんやりとしていた。空のきれいな、晴れた日になった。そのうち、ふと、去年の夏の初め、あの謎の女の人を車に乗せて、海辺の海水浴場まで行った時の事が思い出された。そう言えば、あそこの浜辺には、あの時以来ずっと行っていない。きょう、これから、行ってみるか。突然、そう思いついたおれは、さっそく車に乗って、去年の夏に出かけて行った、あの浜辺へと向かった。

浜辺の駐車場に着いたのは、昼ごろだった。さすがにまだ、海水浴の季節ではなかったので、駐車場はがらんとしていて、すみの方に一台だけ、どこかの車がぽつんと停めてあった。久しぶりにやって来たおれは、車から降りると、浜辺へと歩き始めた。そしてすぐに、浜辺から少し離れた所に、いつの間にか桟橋ができていて、立派なボートがそこに泊まっている事に気がついた。去年の夏、ここにやって来た時には、あんな物は無かったはずなんだが。いつの間にできたのだろうか。気になったおれは、ボートが泊まっている桟橋へと向かった。桟橋にたどり着くと、ボートの中から帽子をかぶった白い服のおじさんが、あわてて飛び出して来た。そして、
「きょうのお客さんですね。午後二時の予約じゃなかったですか?」
と、突然、聞いて来たので、おれが何の事か分からずに、きょとんとしていると、
「まだ、準備が終わってないんで、もう少し、待っててもらえませんか?」
と、続けた。
「あ、全然、関係無いです。いつの間に、こんな桟橋ができたのかと思って、ちょっと見に来ただけですよ。」
「あ、そうでしたか。いや、予約してた時間が違っていたのかと思って、一瞬、あわてた。」
と、おじさんはほっとした様子で答えた。
「ところで、去年はまだ、こんな所は無かったですよね。」
「ああ、ここは最近できたとこなんでね。」
「ですよね。去年の夏、ここに来た時には、まだ、こんな物は無かったから。」
と、おれが言うと、
「いや、いや。そんな事はない。去年の春にはもう、できてましたよ、ここの桟橋は。」
と、おじさんがむっとした表情で言い返して来たので、おれは、はっとした。もしかして、去年の夏、あの人を連れてここにやって来た時、おれが見ていたものは、あれは皆、何かのまぼろしだったのだろうか。そう思ったとたん、おれは、呆然となった。目の前にいたおじさんは、おれのようすを見ると、さっさとボートの中に戻って行った。分からない。何がどうなっているのやら。去年はここで、おれは何か、別のものを見ていたのだろうか。急に周りの景色が、よそよそしく見えて来た。
なんだか、浜辺に居辛くなったおれは、駐車場へと引き返して行った。どうやらきょう、ここへ来たのは、何の意味も無かったようだ。車の中に戻ったおれは、この後、どこへ何をしに行ったらいいのか、何も思いつかずにいた。それで、車の窓を開け、シートを倒すと、車の天井を見ながら、じっと考えた。
どれだけ思い出しても、去年、ここに来た時には、あんな桟橋もボートも無かった。いや、もしかしたら、あの桟橋はあったのかも知れない。ただ、おれの目には入らなかっただけなのかも。考えても、考えても、分からなかった。

◆ だいぶ時間が過ぎてから、そう言えば、去年、ここに来た時、着くとすぐおれは、見晴らしのいい場所の木の下に行って、ずっとそこで昼寝をしていたのだった。と、やっと、去年の事がはっきりと思い出されて来た。そして、気がついた時には、あの女の人はいなくなっていて、どこに行ったのか分からず、その後、おれはひとりで家に帰って行ってしまったのだった。そうだ。あの時、自分が昼寝をしていた場所がどこだったのか、ちょっと捜してみるか。
ふと、思い立ったおれは、シートから起き上がった。ちょうどその時、駐車場に一台の車が入って来た。あれは、もしかしたら、さっきのボートのおじさんが言っていた、二時に予約していた客なのだろうか。いったい、どんなやつなんだろう。ちょっと気になったおれは、車の中からじっと様子を見た。少し離れた所に停まった車から、やがて、おれの知らない若い男が出て来た。男は、周りを見渡した後、車のそばにじっと立っていた。別の車が来るのを待っているみたいだ。少したって、もう一台の車が入って来ると、男が立っているすぐそばに停まった。そして車の中から、一人の若い女が出て来た。あれっ、あの人。去年、出会ったあの女の人じゃないか。と言うことは、人事部長なのか。と言うか。いったい、どうしてなんだ。ま、まずい。おれがここにいる事が、部長に分かってしまう。おれはあわてて、車の窓から身を隠した。やがて、若い男女が楽しそうに、おれの車のすぐそばを通り過ぎて行く声が聞こえて来た。あの女の人の声は、あれは確かに人事部長の声。なんで、こんな所にやって来たんだ。
その時おれは、去年出会ったあの人と、今のおれの上司とが頭の中で重なり合って行くのを感じだ。やっと今ごろになって、はっきりと思い出した。去年出会ったあの女の人と、本社の人事部長とは、顔だけじゃなくて声もまったく同じだった。確かに、そうだった。 男女の声が遠ざかって行った後、おれは車から出ると、浜辺を見下ろす小高い丘の上に走って登って行って、そこから、あの桟橋を見た。思っていた通り、さっきの二人はボートの泊まっている桟橋に向かって、仲良く手をつないで歩いている。やがて二人が桟橋に着くと、ボートの中なら、さっきのあのおじさんが出て来た。二人の予約した客がボートに乗り込むと、やがてボートは桟橋を離れ、沖の方に向かって進み始めた。
不思議なあたたかさが、おれの体に伝わって来た。もしかしたら、あの女の人は、おれの会社の今の上司とは全く、別の女の人なのかも知れない。たまたま、部長と声と顔が似ていただけなのかも。しかし、そんな事はどうでもいい。何かこの瞬間、今まで自分を縛りつけていた、目に見えない何かが消え去って行った気がする。何か、やっと自由になれた気がする。おれは、ボートの姿が見えなくなった後も、ずっと、ボートが通り過ぎて行った後の、海の表情を見つめ続けていた。

2007.10.26 記事公開

土曜の午後 15 消えたまぼろし

◆ 急にやって来た三週間の休暇がとうとう終わって、月曜日、おれは久しぶりに会社に出勤した。人事課の部屋に来てみると、部長はやはりいなかった。やがて、九時の始業の時刻になると、すぐ、人事課の人に呼ばれた。おれは人事課の人と一緒に、誰もいない部長室の中に入ると、ソファに向かい合って腰掛けた。
「じつは、部長は、先週の金曜日で会社を辞めたんだ。」
「えっ?」
おれは驚いた。休暇が終わったら、自分がこの会社を辞めさせられるものだとばかり思っていたのに。そのために、おれに三週間の休みをくれたんじゃなかったのか。しばらく、沈黙が続いた。
ひょっとして・・・。一昨日の土曜日の午後に、あの海辺の海水浴場の駐車場で偶然見かけた、あの、顔も声も部長にそっくりだった女の人、あれはやっぱり部長だったのか。そうか。ちょうどその前の日の金曜日に、この会社を辞める事ができて、やっと長い束縛から開放されたので、恋人と二人きりで船で旅に出かけるために、あそこの桟橋にやって来たのだ。おれって、本当に勘が鈍いな。部長は、実は、ずっと前からこの会社を辞めるつもりでいたのだ。ようやく、納得が行くようになったおれの様子を見て、人事課の人が再び話を続けた。
「それで今週は、実は急いでやらないといけない仕事がたくさんあるんだ。まず、社長室の中を片づけて、残っている書類を全部、分類して整理しないといけない。」
やっぱり、あの社長室はもう、無くなるのか。やっとおれは、分かって来た。今まで、あの人事部長がいたから、空室同然だった社長室がずっと残っていたのだ。もう、あの社長が、会社に出てくる事は無いと言うことなのだろう。と言うことは、おれが社長に突然呼び出されたあの日は、社長がこの会社に出て来た最後の日だったという事なのか。おれが、呆然としていると、
「それじゃあ、とにかく、すぐ社長室に行って、一緒に作業を手伝ってくれ。」
と言われて、おれは、はっとして、あわててエレベーターで社長室に向かった。

◆ 社長室の手前の秘書の部屋に入ると、奥のドアが開いていて、ドアの向こうの社長の部屋で、人事課の人たちが机の上に山のように積み上げたたくさんの書類を仕分けしているところだった。さっそくおれは、中に入って仕事を手伝った。
「思っていたよりも、早く辞めたね、あの人。」
しばらくして、誰かが口を開いた。
「あと二、三年はいるのかと思ったけどね。」
と、別の人が答えた。
「急に辞めたけど、何かあったのか?」
「さあ。」
どうやら、人事課の人たちも、あの部長がそんなに長くこの会社にいるとは、思っていなかったみたいだが、それにしても、急に辞めてしまった事には、驚いているみたいだ。もしかしておれが、あの第九営業所の秘密の会議を盗聴してしまったからなのだろうか。おれがやった事のために、あの部長は、この会社にこれ以上居続ける事ができなくなってしまったのだろうか。あの女の部長が一体、どう言う人だったのか、ほとんど何も知らなかったおれは、周りの人に少しずつ、辞めた部長の事を聞いてみた。どうやら、本社の人たちにとっても、あの部長は、謎の人物だったみたいだが、ここに至るまでのいきさつは、だいたい次のような事だった。

先代の社長の長男で、この会社の後継者であったあの社長は、社長の地位を継ぐだいぶ前に病を患い、相当長い間、仕事から離れて療養生活を送っていた。そして、やっと体が回復し、本社に帰って来た時には、以前の部下たちは自分から離れて行ってしまっていて、本社に居る事が次第に苦しくなって来た。それで、ある時、自ら希望して、ある寂れた地方の出張所に単身赴任で出向いて行った。そして、そこである若い女性を見つけ、出張所の社員として採用したのだった。 それからしばらくして、先代の社長が急死し、出張所にいた社長は、新しい社長として再び本社に戻って来たが、その時、その女性を自分の秘書として、連れて来たのだった。おかしな事だが、社長がいた当時のそこの出張所の社員たちは、その後、様々な理由で次々と退職して行って、その女性がやって来たころの当時のいきさつを知っているのは、社長以外には誰もいなくなってしまっていた。
ところが、本社に戻って来た社長は、急に責任の重い立場についたせいか、再び病状が悪化し、入退院を繰り返すようになった。そして、ある時突然、社長は会社の重役たちの反対を押し切って、自分の秘書だった女性を強引にも本社の人事部長にしてしまったのだ。
実は、これらの事は皆、ごく最近あった出来事だった。社長が、地方の出張所から戻って来たのは、去年の春で、おれがあの連休の合間の土曜日の午後に、あの謎の女性と初めて出会った、そのすぐ後だった。そして、新しい社長を迎えた後に、全社的な人事があって、その時おれも、営業所を変わったのだった。それから、社長の秘書だったその女性が人事部長になったのは、まだ今年に入ってからの事で、それからほんの少したって、おれが突然、本社に人事異動で来ることになったのだった。
「あの人に会いたかったら、自宅に行ってみればいいんじゃないの。」
おれが、部長の事をいろいろと聞くので、一人の人がそう言うと、
「いや、きっともう、どこか遠くに出かけて、いなくなっているよ。さっそくもう、携帯電話が通じなくなっているし。」
と、別の人が答えた。

◆ やっと昼休みの時間になると、ほかの人たちは皆、あわてて地下一階の食堂に向かって飛び出して行ったが、おれは、食堂に行く気にはなれなかった。誰もいなくなった社長室の窓から、おれは、周りの町の様子を眺めた。すぐ近くに、あの第九営業所の建物が見えた。
去年の春、初めて出会ったあの人は、この本社に来てからずっと、この社長室の隣のあの秘書の部屋に、毎日、通っていたのだろうか。そして、土曜日は会社が休みの日だったから、土曜日の午後になると、おれのいる所に、訪ねて来てくれたのだろうか。いや、もう、その事を考えるのはやめよう。これでもうすべて、終わってしまったのだから。おれはそう、心の中で自分に言い聞かせた。

終わり