2007年10月31日水曜日

土曜の午後 14 再び海へ

◆ 次の日からおれは、晴れた日は、釣りの道具を持って海へ出かけて行った。こんな長い休暇をもらったのは、この会社に入社して以来、初めての事だった。ところで、この休みがもらえたのは、例の第九営業所にスパイが入っていた事が、おれの口から広まるのを人事部長とあの社長が、恐れたからじゃないのだろうか。釣りをしながらおれは、そんな事を思った。だとしたら、この休みが終わって再び会社に戻って来た時、おれは一体、どうなるんだ。そう考えると、再びおれは不安になった。それでも、海の景色は、おれの中に今までたまっていた疲れを吸い取って行った。そして、次第に、もうすぐ自分は、今の会社をやめる事になるのではないのか、と言う気がして来た。何か、今までとは違った、全く新しい人生がもうすぐ始まるような予感がして来た。

◆ 長かった休暇がいよいよ終わりに近づき、最後の週末の土曜日になった。いいかげん、海の釣りに飽きて来ていたおれは、この日は何もする予定が無く、朝から家でぼんやりとしていた。空のきれいな、晴れた日になった。そのうち、ふと、去年の夏の初め、あの謎の女の人を車に乗せて、海辺の海水浴場まで行った時の事が思い出された。そう言えば、あそこの浜辺には、あの時以来ずっと行っていない。きょう、これから、行ってみるか。突然、そう思いついたおれは、さっそく車に乗って、去年の夏に出かけて行った、あの浜辺へと向かった。

浜辺の駐車場に着いたのは、昼ごろだった。さすがにまだ、海水浴の季節ではなかったので、駐車場はがらんとしていて、すみの方に一台だけ、どこかの車がぽつんと停めてあった。久しぶりにやって来たおれは、車から降りると、浜辺へと歩き始めた。そしてすぐに、浜辺から少し離れた所に、いつの間にか桟橋ができていて、立派なボートがそこに泊まっている事に気がついた。去年の夏、ここにやって来た時には、あんな物は無かったはずなんだが。いつの間にできたのだろうか。気になったおれは、ボートが泊まっている桟橋へと向かった。桟橋にたどり着くと、ボートの中から帽子をかぶった白い服のおじさんが、あわてて飛び出して来た。そして、
「きょうのお客さんですね。午後二時の予約じゃなかったですか?」
と、突然、聞いて来たので、おれが何の事か分からずに、きょとんとしていると、
「まだ、準備が終わってないんで、もう少し、待っててもらえませんか?」
と、続けた。
「あ、全然、関係無いです。いつの間に、こんな桟橋ができたのかと思って、ちょっと見に来ただけですよ。」
「あ、そうでしたか。いや、予約してた時間が違っていたのかと思って、一瞬、あわてた。」
と、おじさんはほっとした様子で答えた。
「ところで、去年はまだ、こんな所は無かったですよね。」
「ああ、ここは最近できたとこなんでね。」
「ですよね。去年の夏、ここに来た時には、まだ、こんな物は無かったから。」
と、おれが言うと、
「いや、いや。そんな事はない。去年の春にはもう、できてましたよ、ここの桟橋は。」
と、おじさんがむっとした表情で言い返して来たので、おれは、はっとした。もしかして、去年の夏、あの人を連れてここにやって来た時、おれが見ていたものは、あれは皆、何かのまぼろしだったのだろうか。そう思ったとたん、おれは、呆然となった。目の前にいたおじさんは、おれのようすを見ると、さっさとボートの中に戻って行った。分からない。何がどうなっているのやら。去年はここで、おれは何か、別のものを見ていたのだろうか。急に周りの景色が、よそよそしく見えて来た。
なんだか、浜辺に居辛くなったおれは、駐車場へと引き返して行った。どうやらきょう、ここへ来たのは、何の意味も無かったようだ。車の中に戻ったおれは、この後、どこへ何をしに行ったらいいのか、何も思いつかずにいた。それで、車の窓を開け、シートを倒すと、車の天井を見ながら、じっと考えた。
どれだけ思い出しても、去年、ここに来た時には、あんな桟橋もボートも無かった。いや、もしかしたら、あの桟橋はあったのかも知れない。ただ、おれの目には入らなかっただけなのかも。考えても、考えても、分からなかった。

◆ だいぶ時間が過ぎてから、そう言えば、去年、ここに来た時、着くとすぐおれは、見晴らしのいい場所の木の下に行って、ずっとそこで昼寝をしていたのだった。と、やっと、去年の事がはっきりと思い出されて来た。そして、気がついた時には、あの女の人はいなくなっていて、どこに行ったのか分からず、その後、おれはひとりで家に帰って行ってしまったのだった。そうだ。あの時、自分が昼寝をしていた場所がどこだったのか、ちょっと捜してみるか。
ふと、思い立ったおれは、シートから起き上がった。ちょうどその時、駐車場に一台の車が入って来た。あれは、もしかしたら、さっきのボートのおじさんが言っていた、二時に予約していた客なのだろうか。いったい、どんなやつなんだろう。ちょっと気になったおれは、車の中からじっと様子を見た。少し離れた所に停まった車から、やがて、おれの知らない若い男が出て来た。男は、周りを見渡した後、車のそばにじっと立っていた。別の車が来るのを待っているみたいだ。少したって、もう一台の車が入って来ると、男が立っているすぐそばに停まった。そして車の中から、一人の若い女が出て来た。あれっ、あの人。去年、出会ったあの女の人じゃないか。と言うことは、人事部長なのか。と言うか。いったい、どうしてなんだ。ま、まずい。おれがここにいる事が、部長に分かってしまう。おれはあわてて、車の窓から身を隠した。やがて、若い男女が楽しそうに、おれの車のすぐそばを通り過ぎて行く声が聞こえて来た。あの女の人の声は、あれは確かに人事部長の声。なんで、こんな所にやって来たんだ。
その時おれは、去年出会ったあの人と、今のおれの上司とが頭の中で重なり合って行くのを感じだ。やっと今ごろになって、はっきりと思い出した。去年出会ったあの女の人と、本社の人事部長とは、顔だけじゃなくて声もまったく同じだった。確かに、そうだった。 男女の声が遠ざかって行った後、おれは車から出ると、浜辺を見下ろす小高い丘の上に走って登って行って、そこから、あの桟橋を見た。思っていた通り、さっきの二人はボートの泊まっている桟橋に向かって、仲良く手をつないで歩いている。やがて二人が桟橋に着くと、ボートの中なら、さっきのあのおじさんが出て来た。二人の予約した客がボートに乗り込むと、やがてボートは桟橋を離れ、沖の方に向かって進み始めた。
不思議なあたたかさが、おれの体に伝わって来た。もしかしたら、あの女の人は、おれの会社の今の上司とは全く、別の女の人なのかも知れない。たまたま、部長と声と顔が似ていただけなのかも。しかし、そんな事はどうでもいい。何かこの瞬間、今まで自分を縛りつけていた、目に見えない何かが消え去って行った気がする。何か、やっと自由になれた気がする。おれは、ボートの姿が見えなくなった後も、ずっと、ボートが通り過ぎて行った後の、海の表情を見つめ続けていた。

2007.10.26 記事公開