2007年10月31日水曜日

土曜の午後 9 第九営業所

◆ 午後一時になったとたん、机の上の電話が鳴った。受話器を取ると、今から部長が面接をするから、人事部人事課にすぐ来いとの事だった。どうやら会議と言うのは、昼休み前には終わっていたようだ。おれは緊張して部屋を出ると、エレベーターに乗って、人事部人事課に向かった。
人事課に行くと奥の部長室に通された。入ってみると、部屋の奥の大きな机の向こう側に、女の人が腰掛けていた。えっ、人事部長ってこの人なのか。
「お待たせして済みませんでした。そこのソファに腰掛けてください。」
と言われて、すぐ目の前のソファに腰掛けると、女の人事部長は、部長の椅子から立ち上がって、おれの向かい側のソファに腰掛けた。眼鏡の向こうの目が光った。眼つきの鋭い、手ごわそうな雰囲気の人だ。
「入社してから、営業所を二か所回って来られましたね。」
と、さっそく聞かれたので、
「そうです。」
と答えると、部長は少し間を置いてから、
「所長さんからは、とても我慢強い方だとお聞きしていますよ。」
って、このおれの事なのか。どこで、そんな話になっていたんだ。おれは、内心、あきれた。部長はおれのようすをじっと見てから、
「そこで、あなたに、本社の第九営業所の管理の仕事をやってもらいたいのです。」
おや、本社にも営業所があったのか。それは、知らなかった。って、まさか、おれがそこの営業所長をやるって事なのか?何だか、どういうことなのか、話がよく分からない。と思っていると、部長は話を続けた。
「第九営業所では、残業や休日出勤は一切ありません。ほかの人たちが出勤して来る前に、営業所の鍵を開け、終業時間が来たら戸締りをして帰ってください。あとの事は、そこの人事課の人に聞いてください。」
という事で、面接はすぐに終わってしまった。
部長室を出ると、人事課の人から第九営業所の鍵を渡され、営業所の場所を教えてもらったが、要するに、この本社ビルのすぐ向かい側じゃないか。そんな近くに営業所があったのか。
「あ、この鍵って、ずーっとおれが持ってるんですかね。」
「そうです。毎朝、九時に営業所の入り口を開けて、六時になったら、閉めて帰ってください。」
「仕事で残っている人がいたら、どうするんですか。」
「いや、多分、いないと思いますけど。」
と言うことで、話を聞いていてもよく分からないので、とにかく行ってみる事にした。

◆ 営業所だから、当然、通りに面した所にあるのだろう、と思って行ってみると、どれだけ捜してもそれらしいものが見当たらない。どうもおかしい。と思っていると、通りから入って行く細い路地があるのに気がついた。まさか、こんな所を入って行くんじゃないだろうな。と思いながらも、曲がりくねった路地を進んで行くと、少し古い建物があった。え、まさかここじゃあ・・・。それに、窓には全部、ブラインドが掛けてあるし。と思って入り口まで行ってみると、「第九営業所」と書かれた小さな札が掛かっている。なんと。何なんだ、これは。
恐る恐るドアを開けて中に入ってみると、確かに会社のオフィスのように机が並んでいるが、中にいるのは皆、おじさんたちばかりじゃないか。しかも中は、しーんと静まり返っている。これは・・・。ところでおれは、どこにいればいいんだ。まさかあの、窓際に一つだけある机が、おれの席じゃないだろうな。と思っていると、ひとりのおじさんがおれの方を見て、おまえの席はあそこだ、と指で合図をしている。やっぱり、あそこか。ところで、おれはいったい、これから何をすればいいんだ? と思って、入り口の所で立ったまましばらく唖然としていると、とんとんと誰かに後ろから肩をたたかれた。振り向くと、ひとりのおじさんがいつの間にかやって来ていて、そっとおれに耳打ちしてくれた。
「ここはな、病気やけがで長い間、会社を休んどった人が、もとの仕事場に復帰する前に、体を慣らすために二、三週間通うところなんや。だから、隣どうしは皆、知らん人ばっかやから、話もせずに黙っとるんや。」
と言われて、やっとおれは納得した。しかし、こんな部署がうちの会社の中にあったとは知らなかった。あ、ところで。と、そこでおれはふと気がついた。入り口を入った所にタイムカードが無かったな。皆、どうしているんだろう。と思って、入り口の周りを見回してみると、受付のカウンターの上に、「出勤簿」と書かれたノートが一冊、置いてある。何と、ここではみんな手書きで、出勤時間をノートに書き込んでいるのか。

◆ やっと、窓際の席に腰掛けたおれは、おじさんたちの様子をしばらく眺めていた。仕事の書類らしき物をパラパラとめくりながら読んでいる人もいれば、何か熱心に書き物をしている人もいるが、その一方で、ずーっと新聞ばかりを読んでいる人もいれば、文庫本を読んでいる人もいたりで、まるで皆、やっている事がばらばらだ。ところで、どうも静かだと思っていたら、よく見ると、おじさんたちの机の上には、どこにも電話が無い。電話が置いてあるのは、おれの机の上だけだ。
一体、どう言う事なんだろう、これは。おれはしばらく考えた。たぶん、ここに来ている人たちは皆、相当長い間、仕事から離れていたのだろう。だからもう、職場の雰囲気には、ついて行けなくなっているのだ。それにしても、ひとりひとりの姿勢が皆、違っているように見える。自分の遅れを取り戻そうとして努力している人もいれば、自分の将来をまるであきらめてしまっているように見える人もいるし。

◆ なんか、おれって、空虚な仕事がよく回って来るな。何でだろうか。しばらく、周りのようすを見ていたおれは、いつの間にか、そんな事を考え始めていた。以前の営業所にいた時も、出勤日ではない土曜日の電話番をよくやらされたが、そこで電話がかかって来た事は一度も無かった。そして今度は、本社に人事になったと思ったら、何のことはない。病み上がりの人たちの仮の仕事場の管理人の仕事だ。
しばらく、いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていたおれは、だいぶたってから、あの土曜日の午後に出会った不思議な女の人の事をいつの間にか考えていた。ところがそれが、さっぱり頭の中に甦って来ないのだ。あの人の顔とか、声とか、姿とかが、不思議な事にまったく思い出せない。どうしてなんだ。
知らない間に時間が過ぎて行って、午後五時を少し過ぎた頃、ひとりのおじさんが席から立ち上がると、小さなかばんを持って、入り口の方に歩いて行った。あれれ、もしかしてあの人、もう帰るつもりなのか。まだ、勤務時間が少し残っているんだけど。と思って見ていると、カウンターの上のノートを開いて、さっさと何かを書き込むと、黙ってそのまま出て行ってしまった。あれーっ。こんなんでいいんだろうか。と思っていると、そのうちあちらこちらの席からぱらぱらと、ほかの人たちも立ち上がると、同じように、カウンターの上のノートに何かを書き込んで出て行く。あれよ、あれよ、と見ている間に、ほとんどの人が五時半頃には出て行ってしまって、残っているのはひとりのおじさんだけになった。あの人、ずーっと文庫本を読んでいるな。よっぽど、本を読むのが好きなんだな。
六時のチャイムが鳴ると、最後まで残っていた人が立ち上がり、ノートに書き込みをして、出て行った。あの人だけ、えらく几帳面だな。窓のブラインドのすき間から外を見ると、最後までいた人が自転車に乗って帰って行くところだった。そう言えば、玄関先に自転車が一台だけ置いてあったが、あの人のだったのか。

◆ 最後の人が帰って行ってしまうと、おれは、心の底からほっとした。長い一日だった。ああ言う人たちも、世の中にはいるのだ。誰もいなくなった机の列を眺めながら、おれはしみじみと思った。念のため、カウンターの上のノートを開いて見ると、全員しっかり、退出時間が午後六時ちょうどになっている。そして、出勤時間は、全員しっかり、午前九時ちょうどになっていた。
第九営業所の入り口に鍵を掛けて、狭い路地を通って、通りに出てみると、通りの向かい側の本社ビルからは、仕事を終えた社員たちが続々と出て来て、歩道は人でいっぱいになっていた。そうだったのか。やっとおれは、分かった気がした。六時の定刻にこの営業所を出たら、帰りの道は、本社の社員たちと顔を合わせながら、地下鉄の駅までずっと歩いて行かなくてはならない。だから、あの人たちは早めに帰ったのだ。そして、最後まで残っていたあの律儀な人。あの人は多分、少し遠いJRの駅まで自転車で通っているのだろう。だから、六時にここを出ても、途中で本社の社員たちを全部、追い抜いて行ってしまうから、帰りの電車の中では、知っている人とは顔を合わせないでいられる。そういう事だったのだ。
そう言えば、おじさんたちの中で、おれが以前、見かけた事があるような人は、誰もいなかったな。もしかして、おれの知っている人間がいない事を確かめた上で、おれにここの管理を任せる事にしたのだろうか。本社の社員たちの間で揉まれながら、地下鉄の駅に向かって歩いていたおれは、そんなことをぼんやりと考え続けていた。ひょっとしたら、先週まであそこの管理を担当していたやつは、今週からそいつの知っているおじさん、そう、以前の上司とか、が入って来る事になったので、担当をはずされたのかも知れない。それで、おれに急きょ、その担当が回って来たのだ。きっと、そう言うことなのだろう。

2007.07.10 記事公開