2007年10月31日水曜日

土曜の午後 4 海

◆ それからまた、一週間が過ぎて、次の土曜日がやって来た。会社の仕事が忙しくなって来て、その日は朝から営業所に出勤した。午後の一時過ぎに仕事を終えると、おれは急いで車に乗って、先週、新装開店したばかりのあの店に向かった。昼食をとる時間はなかった。なんとか午後二時までには、店に着かないと。そうすれば、二時ちょうどになった時、先週と同じように、店内が一瞬だけ停電するはずだ。そして、店の奥にある喫茶室は二時から三時の間は閉まっているから、そこに行けばあの人がいるはずだ。
やっと店の駐車場に着いた時は、二時直前だった。おれは急いで車から出ると、店の中に駆け込んで行ったが、その時はすでに二時を過ぎていた。二時ちょうどに、店内が停電したかどうか、残念ながら確かめられなかった。中に入ってみると、先週の混雑ぶりと比べて、客がまばらなように思えた。それはともかく、店内の配置ががらりと変わってしまっていて、どこに何があるのかが、まるでさっぱり分からない。まあいい。とにかく、喫茶室に行ってみよう。今、閉まっているはずだ。

喫茶室の入り口まで来て、おれは驚いた。中には大勢の客がいる。きょうは二時を過ぎてもやっているのか。念のため、おれは入り口のドアをゆっくりと押してみた。ドアは静かに開いた。
「いらっしゃいませ。」
と、喫茶室の店員の声が中から聞えると、おれはあわててドアの外に出た。どうなっているんだ、きょうは。おれがはじめ考えていた予定と違うぞ。待てよ。先週やったように、後ろ向きになってここのドアを開けてみたらどうなるんだ。
そう考えたおれは、背中を喫茶室の入り口のドアに向け、後ろ向きになってドアを押してみた。ドアはゆっくりと開いた。そのとたん、中のカウンターの店員と目が合った。さっき、声をかけてくれた人だ。
「あ、ど、どうも。たびたび失礼しました。」
そう言うとおれは、あわてて喫茶室を出た。もう、何がどうなっているのだか、さっぱり分からない。しかし、急がないとどんどん時間が過ぎて行ってしまう。すっかり頭の中が混乱してしまったおれは、その時やっと、さっき、車のドアをロックせずに、あわてて店の中に入って来てしまった事に気がついた。そうだった。とにかくまず、自分の車のドアをロックしておかないと。それから、この後、どうするかを考えよう。おれは急いで駐車場に行った。

駐車場は人影がまばらだった。おれの車は、特に変わったようすはなかった。そこでおれは、ドアを開けてみようとしたが、いくら引っ張っても開かない。なんだ。ちゃんとロックしてあったのか。ロックし忘れたと思ったのは、おれの勘違いだったのか。と思って、車の窓から中のようすを見たが、やっぱりロックはしてない。なぜドアが開かないんだ。おれはポケットから車のキーを取り出すと、ロックを掛けたり外したりしたが、どちらにしてもドアは開かない。おかしい。と思って、もう一度、思いっ切り引っ張ってみると、ドアは少し開きかけると、すぐまた閉まってしまう。とうとう、おかしくなってしまったのか、この車は。あっ、いや、そうじゃないぞ。これは、もしかすると・・・。
おれはやっとそこで気がつくと、今度は後ろ向きになって車のドアを引いてみた。するとドアは何事もなかったかのように、すんなりと開いた。やれやれ、やっと開いた。と思った瞬間、
「何ぐずぐずしてるのっ!!急いでっ!!」
と、おれに向かって怒鳴りつける声が車の中から鳴り渡った。ぎょっ、お化けか、これは。おれの車の中に、いつの間に化け物が入り込んでいたんだ?

◆ 驚いて中を見ると、いつの間にかあの女の人が、後ろの座席に腰掛けている。さっき、外から車の中をのぞいた時には、誰もいなかったはずなのに。この女、やっぱり妖怪だったのか?突然の出来事に、おれは気が動転してしまった。
「早く出かけましょうよ。」
今度は、さっきより少しやさしい声で女の人が言った。
「出かけるって、どこへ・・・?」
おれが、ひとり言のようにつぶやくと、
「海まで連れてってくれるんでしょ?」
いつの間に、そんな話になってしまったんだ。
「早く出かけないと、泳ぐ時間がなくなっちゃうじゃないのっ!」
泳ぐって、水着もないのに泳ぐのか。あ、もしかして。と、おれは後ろの座席の女の人をもう一度、よく見た。なんと水着姿だった。そこでおれは、やっと分かった。きょうは、店の入り口が水着のコーナーになっていたのだ。きっとこの人は、そこのマネキン人形になっていたのだろう。それで、二時になるとすぐ、店の入り口から外に飛び出した。たまたま、おれの車のドアがロックしてなかったので、すぐにおれの車の中に乗り込んで、ずっとそこで待っていたのだ。そういう事だったのか。やっと納得したおれは、運転席に腰掛けると、車のドアを閉めた。こうしてはいられない。すぐに海に向かって出発だ。しかし・・・。
「ここから海まで行くだけで、たぶん、一時間はかかってしまうな。途中、信号も多いし、土曜日だから、道も混んでいるだろうし・・・。」
「なに言ってるのっ!車なんか一台も走ってないでしょ!」
女の人が再び、怒るように叫んだので、おれははっとした。そうか、そうだったのか。さっき、後ろ向きになって車のドアを開けた瞬間から、おれは別の世界に入っていたのだ。だからよく見ると、外には誰も人が歩いていないし、車も一台も走っていない。そういう事だったのか。そうと分かったおれは、少しでも女の人が長い時間泳げるようにと、一台も車が走っていない道を猛スピードで、海を目指してぶっ飛ばして行った。

◆ 不思議な事に、どこまで走り続けて行っても、道路には一台も車が無かっただけでなく、途中の信号はどこまで行っても皆、青だった。おれは、延々と車を飛ばし続けた。
しばらくして広い国道に出ると、おれは思い出したように女の人に聞いてみた。
「ところで君、なんて言う名前なの?」
すると女の人は、しばらくたってから、
「名前ですか。名前はありますけど、もう忘れましたよ。だいぶ長いこと、使ってないし。」
住所はどこなの?と、次に聞こうか、と思っていたおれは、これで調子を狂わされてしまった。
「じゃ、お父さんとお母さんはどこにいるの?」
何の考えもなく、ふと思いついたように、おれはそう聞いてみたが、女の人から返事はなかった。しばらくたって、女の人がうつむいて涙ぐんでいるのが分かった。まずい事を聞いてしまったみたいだな。そう思ったおれは、その後は何も聞かずに、黙って運転に専念した。何だかよく分からない、謎の女だな・・・。

◆ 思っていたよりもずっと早く、海辺の海水浴場に到着すると、駐車場には何台かの車が停まっていたが、浜辺には人影は無かった。着いたとたんに女の人は、車のドアを開けると外に駆け出して行った。何と浮き輪まで持っている。気がつかなかった。
「いっしょに泳ぎましょう!」
と女の人は、おれに向かって手を振りながら叫んだ。いや、それは困る。まだ昼飯を食べてないし、泳ぐ用意なんかしてないし。おれが苦笑して首を横に振ると、女の人はがっかりしたようなしぐさをしてから、車のすぐ横まで戻って来た。
「じゃあ、時間が来たら知らせてね。それから、こんな所になんかいないで、いっしょに来て、ちゃんと私を見てて。」
と甘えるように言って来たので、ついついおれも腹が減っているのを忘れてしまって、車を降りると、一緒に浜辺まで歩いて行った。
さすがに、久しぶりに海まで来てみるといい気分だ。ここに来るのが分かっていたなら、釣りの道具でも持って来ればよかった。キスとか釣れそうだな、ここなら。天ぷらにして食べたらうまいだろうな。見晴らしのいい少し小高い場所の木の陰に腰を下ろしたおれは、とたんに疲れがどっと出て来て、仰向けに寝転がると、そのままうつらうつらとし始めた。

だいぶたってから、あ、そうだった。と、思わずおれは、あわてて起き上がった。今、どこにいるんだ、あの子は。と、あちらこちらを見渡したが、どこにも、誰の姿も見えない。おれは青ざめた。時計を見ると、とっくに三時を過ぎていた。あの人は、三時を過ぎたら人間の姿ではいられないはず。と言うことは・・・。もしかして、マネキン人形になって潮に流されるまま沖の方まで行ってしまっているのかも。
おれは一番高い岩の上まで登って行って、海を見渡したが、どこにも何も浮かんでいるようすもなければ、誰も泳いでいるようすもない。ひょっとして、おれの車の中に戻っているのか。ドアをロックしておいたから、中には入れないとは思うが。
おれは急いで、駐車場まで走って行った。だいぶ日が傾いて来ていた。いつの間にか駐車場には、ほかの車は一台も無くなっていた。おれは、車のキーを取り出してドアのロックを外したが、いくらドアを引っ張っても開かない。いったい、どうなってるんだ、この車は。疲れがたまっていたせいで、いきなり腹の底が煮え繰り返ったおれは、全身の力を込めて思いっ切りドアを引っ張った。が、ドアはほんの少し開きかけると、すぐまた閉まってしまった。あ、そういう事だったのか。やっと思い出したおれは、背中をドアに向けて、後ろ向きになってドアを引いてみた。するとドアは、何事もなかったかのようにすんなりと開いた。
中を見ると、車の中には、誰もいなかった。どうしたんだろう、あの子は。もしかして、次の土曜日の午後二時になって人間の姿に戻るまで、あの人は人形になったまま、太平洋を漂流しているのだろうか。分からない。いったい、今、どうしているのか。
呆然となったおれは、しばらくして、ふと思った。ここに着いた時、何台か停めてあった車が、無くなっているのが気になる。ひょっとしたら、あの子は、よその車に乗って帰って行ったのかも。三時直前になっても、おれが熟睡したまま目を覚まさなかったので、そうしたのかも知れない。だんだん、そんな気がして来た。
おれはあきらめて、家に帰る事にした。海辺を離れて町の中に入って行くと、急に道路が車で混み合って来た。そうか。行きは一台も車が無かったが、さっき、後ろ向きになってこの車の中に入った時、おれは現実の世界に戻ったのだ。それで、いつもの土曜日の夕方の混雑ぶりになっているのだ。
途中でレストランを見つけると、おれは車を停めて、そこでやっと今日の昼食をとった。食べ終わると、どっと疲れが出て来た。

2006.09.13 記事公開