2007年10月31日水曜日

土曜の午後 5 コーヒー

◆ それから何週間かが過ぎて、再び土曜日がやって来た。朝の新聞のチラシをめくっていたおれは驚いた。なんと、あの女の人の写真がでかでかとチラシに載っている。それも、おいしそうにコーヒーを飲んでいるところが。よく見ると今度、新しく駅前にオープンしたコーヒー店のチラシだ。よっぽどコーヒーが好きなんだな、あの女は。いやいや、そんな事はどうでもいい。この写真は明らかに、あの女が人間の姿でいる時に撮ったものだ。と言うことは、あの人を知っているやつがおれ以外にも誰かいて、そいつがたぶん、あの人が人間の姿でいるはずの土曜日の午後二時から三時の間に、この写真を撮影したという事だ。いったい、どこの誰なんだ、そいつは。ところでこの女、ずいぶん顔が日焼けしているな。と言うことは、おれが海へ連れて行ってやった後なのか、この写真を撮ったのは。よかった。太平洋を漂流してたんじゃなかった。やっぱりあの時、誰かの車に乗せてもらって帰って行ったのだ。
おれは安心した。が、のんびりとはしていられなくなった。とにかくまず、ここの店を訪ねてみよう。あの人が今、どこにいるのかが分かるかも知れない。

◆ と言うことでさっそく、おれは駅前のコーヒー店まで出かけて行った。店に入ると、中にもやっぱりあの女の顔がでかでかと載ったポスターが貼ってあったが、店内にあの人らしき人はいなかった。
コーヒーを飲み終わって、カウンターで代金を払う時に、おれは店の人に聞いてみた。
「あのポスターのきれいなお姉さんは、ここの店員さんじゃなかったんですか?」
「いえいえ、違いますよ。」
と、店の人は笑って答えた。
「でも、あの写真はここの店で撮ったやつですね?」
「いえいえ。全部、デザイナーに頼んで作ってもらった物です。ポスターに載ってる人は、モデルさんなので、うちの店とは何の関係もないです。なんなら、こちらに問い合わせてみたらどうですか。」
と言って、あの女の人の載っているポスターを作ったデザイナーのスタジオのある場所と電話番号を教えてくれたが、なんと、おれの家のすぐ近くじゃないか。おれは内心、驚いた。

◆ さっそくおれは店を出ると、教えてもらったデザインスタジオに行ってみた。それにしても、自分の住んでいる町内に、あの謎の女の事を知っているやつがいたとは。もっと早く、こういう事は調べておくべきだった。
教えてもらった所に行ってみると、確かにまるまるデザインスタジオとか言う二階建ての建物がある。しかし、看板が小さくて、よほど注意して見ないと分からない。ほとんどの人たちは、ここが何の仕事場なのか分からないまま、ここの前を通り過ぎて行っている事だろう。建物の一階はシャッターが降ろしてあって、たぶんここが車庫で二階が仕事場なのだろうが、二階の窓は皆、ブラインドが掛かっていて、中に人がいるのかどうかも分からない。と思ったおれは、きょうが土曜日である事をやっとそこで思い出した。そうだ。ここのデザイナーは、あの女の人が人間の姿でいるはずのきょうの午後二時から三時の間に、あの人をモデルにしてここで仕事をするはずだ。ということは、二時になったら、あの人がここへやって来ると言うことだな。よし、わかったぞ。

◆ おれはいったん家に帰ると、午後二時少し前にまた、デザインスタジオに行ってみた。そしたらちょうど、車庫からワンボックスの車が出て行くところだった。あれれ、どうしてなんだ。二時過ぎにここにあの人がやって来るんじゃなかったのか。
まさか、ここのデザイナーが車で外へ出かけて行くとは思っていなかった。建物の前まで来た時には、車庫のシャッターは既に閉まっていて、その後はどれだけ待っても何も変わった事はなかった。どうも、二階の仕事場には人が残っているようすはない。と言うことは、この後、どこか別の場所であの女と待ち合わせをする事になっているのだろうか。そうかも知れない。周りの住人に、あの謎の女の事を知られないためにわざとそうしているのかも。

時間がたって、三時を少し過ぎた頃、再びさっきのワンボックスの車が帰って来て、車庫に入るとすぐにシャッターが閉まった。どうやら、車の中からリモコンでシャッターの開閉をしているようだ。ワンボックスの車は、外からは中のようすが見えないようになっていて、運転をしていたのがどんな人なのかもよく分からなかった。一階の車庫には、あの車以外には何も無かったように見えた。
その後は、どれだけ待っても何も起こらなかった。二階の仕事場もずっと人がいるようすはない。おかしい。さっきの車を運転して戻って来たやつは、今、何をしているのだろうか。と思って、道を回って建物の裏まで行ってみると、小さな裏口があるのが分かった。あの車を運転して来た人間は、とっくに裏口を出て、自分の家に帰って行ってしまっていたのだ。しまった。そんなところまでは頭が回らなかった。残念だが、きょうはもう、これ以上ここにいてもしかたが無い。きっと、来週の土曜日の午後も、あの車はここからどこかに出かけて行くのだろう。今度は、おれの車で後をつけて行ってやろう。
おれはそのまま家に帰った。デザインスタジオからおれの家までは、歩いて数分の距離だった。たぶん、あの子を乗せて車で海へ行ったあの時、駐車場に何台か停めてあったほかの車の中に、ドアがロックしてなかった車があったのだろう。それであの子は、その車に乗った。それがたまたま、あのデザインスタジオの人間の車だったのだ。そして、あの人にたぶん、缶コーヒーでもあげたらあまりにもおいしそうに飲むので、あのコーヒー店のチラシのモデルに採用する事に決めたのに違いない。しかし、あの程度の写真を撮るだけなら、あそこの二階のスタジオでも間に合うと思うんだが、いったい、車でどこへ行っていたのだろうか。

2006.09.23 記事公開