2007年10月31日水曜日

土曜の午後 12 化粧室

◆ 連休明けの初日。おれは長靴を履いて、朝から本社ビルのトイレ掃除を始めた。「大変ですね。」とか、「がんばれよ。」とか、「こんなひどい仕打ちを受けるなんて、かわいそうね。」とか、励ましてくれたり、同情してくれたりする人が、きっといるだろうと思っていたが、通り過ぎて行く人たちは皆、見て見ぬふりをしていて、夕方になるまで一日中、へとへとになるまで働き続けたと言うのに、ついに一人も、誰も声をかけてくれる人はいなかった。おかしい。世の中って、こんなものなのか?何か間違っているんじゃないのか。
やっと六時になったので、タイムカードを押しに人事課に行ったら、
「部長から話があるそうだから、ここで待っていろ。」
と言われた。何かまだ、言いたい事があるのか?少し待つとすぐ、おれは人事課の奥の部長室に通された。
「失礼します。」
と、礼をして部屋の中に入って行くと、眼鏡を掛けた部長は窓際の部長の席に腰掛けていた。
「そこに座って。」
と言われて、おれは部長の大きな机のすぐ前の椅子に腰掛けた。何かまた、尋問の続きが始まるのだろうか。おれは、いやな気分になった。部長は大きなため息をつくと、
「どうも、おかしいわねえ。」
と、独り言のように話し始めた。
「いつもだったら、どうしてあんな事をやらせるんだ!って、専務がすぐに怒鳴り込んで来るはずなのに、きょうに限って、いつまでたっても、何も言って来ないなんて。」
と、しばらく首をかしげていたが、やがて、おれの方をじっと見て、
「本当にあなたは、誰からも指図を受けていなかったの?」
と、再び問い詰めて来た。
「だから、何度も言っているでしょう。たまたま、偶然、何の気無しに、ちょっとあそこに寄ってみただけなんですよ。」
と、おれが答えると、
「じゃあ、何をしに、あそこに行ったの?何か、やる事でもあったの?」
と聞かれて、おれはまた、何も答えられなくなってしまった。もちろん、あの日は仕事をするためにあそこに行ったわけじゃない。ある人があそこにやって来るかも知れないと思ったから、それを待つために行ったのだ。だが、そんな事は言えない。今まで誰にも話していない事だし。ああ、困った。どう答えたらいいんだ。
「じゃあ、何時頃にあそこに行ったの?」
おれが答えに窮しているのを見て、今度は少し優しい口調で部長が聞いた。
「午後二時少し前です。」
「何ですって!」
とたんに部長は、大きく目を見開いて、おれをにらみつけた。
「私が二時になったらあそこに行く事をやっぱり、知っていたのねっ。」
「い、いや、そんな事、全然、知りませんでした。」
「うそですっ。」
部長の激しい憤りの言葉に、おれは呆然とした。そして、再びまた、沈黙の時間が続いた。長い時間が過ぎた後、
「もういいわ。」
と、部長がぽつりと言うと、おれの目を真っ直ぐに見た。
「私が悪かったわ。疑ってごめん。」
ど、どうしたんだ。いったい、何があったんだ。思いもよらない部長の言葉に、おれは腰を抜かすほど驚いた。何がどうなっているのだか、まるで、さっぱり分からない。
「それから、明日からのあなたの仕事だけど・・・。」
と、部長が話を続けたが、その時初めて、部長の目に涙がにじんでいるのに気がついた。え?うそでしょう。とか、思っていると、
「私の秘書をやってくれる?」
「え?」
と言うことで、本社のトイレ掃除の仕事は一日で終わって、次の日からは、おれが人事部長の秘書の仕事をやる事になった。これって要するに、人事部長が第九営業所の中にスパイを送り込んでいた事をおれが知ってしまったために、もはやおれを会社のほかの部署に回すわけには行かなくなって、自分の目の届く所におれを置いておくしかなくなってしまった、という事なわけだが。それでいつの間にか、おれが人事部長の秘密を守る代わりに、人事部長はおれを守る、と言う、なんとなく、暗黙の了解のようなものが出来上がってしまったのだった。

◆ 次の日の朝、さっそく人事課に出勤すると、なんとなく中の雰囲気がそわそわして、殺気立っていた。何でも今日は、午前中に社長が会社にやって来るらしい。と言うことは、ふだんは社長は、会社には出て来ないのか? その辺をうろうろしていると、いきなり部長に呼びつけられた。これから、社長室に行くので、荷物を持って一緒について来なさい、と言われた。そう言えば、今日の部長は、今までより少し派手な服を着ているな。
部長と一緒に、最上階でエレベーターを降りると、
「こっちに来て。」
と言われて、後について行くと、社長室に真っ直ぐ行くのかと思ったら、あのトイレの方に歩いて行くので、
「あっ、そこ、女子トイレじゃなかったですか?」
と、おれがあわてて言うと、
「なに言ってるの。」と、急に部長が笑い出した。
「どこにもトイレだなんて、書いてないでしょ。」
と言って、豪華なドアを開けて中に入ると、すぐ、あの大きな鏡の前に立った。
「さ、その化粧箱の中に入っている物を全部、ここに並べて。」
と言われて、おれは何の事だかさっぱり分からずに、持って来た荷物を開けてみると、なんと中には、化粧道具とタオルやらガーゼやらとが、びっしりと詰まっている。なんと、こんな物を運ばされていたのか。
「ちょっと、このタオル、持っていてくれる?」
と言われて、おれが大きなタオルを手に持ったまま立っていると、人事部長は眼鏡を外して、お湯で顔を洗い始めた。それにしても、女が顔を洗う時は、なんでこんなに時間がかかるんだろうか。うんざりするほど長い時間、顔を洗っていた人事部長が、いきなり、
「タオルっ。」
と言って、手を出したので、おれが持っていたタオルを手渡すと、部長は、ゆっくりと丁寧にタオルで顔を拭いてから、鏡に映った自分の顔をじっくりと見詰めた。その時、おれは、初めて、鏡に映った部長の顔をはっきりと見た。
まさか。信じられない・・・。鏡の前には、ちょうど一年前の連休の合間の土曜日の午後に初めて出会った、あの若い女が立っていた。

◆ 「ちょっとこれ、また、持っていてくれる?」
と言って、目の前の女が、顔を拭いたばかりのタオルをおれの方に差し出した。そして、その後すぐに、おれの方を振り向いた。
「ちょっと、どうしたの。ちゃんと受け取ってよ。」
やっぱり、おれの方を向いている女は、一年前の土曜日の午後に出会った、あの時の女の人だった。そんな。これは、何かの間違いでは。いったい、どうしたらいいのだ。その時おれは、自分がこの宇宙の外に弾き飛ばされて行くのを感じた。そして、人事部長の言っている事が、まったく、耳に入らなくなった。
「どうしたの。どこか具合でも悪くなったの?」
「あ、いや、どこも悪くないです。」
まるで、魂が抜けてしまったかのように、おれはロボットのように答えた。
「しょうがないわね、もう。」
と言ってから、人事部長はおれの事など気にもせず、鏡の前でのお化粧に熱中していった。長い時間が過ぎた。
「あ、いやだ、もうっ。急がなくちゃ。」
やっと化粧が終わった部長は、時計を見たとたん、そう言ってあわて始めた。
「じゃ、ここにある物をみんな、バッグに入れて、私の部屋に運んどいて。あ、このタオルは濡れているから、一緒にしちゃだめよ。」
再び眼鏡を掛け直した人事部長は、そう言い残すと、さっさと化粧室から出て行ってしまった。おれは、鏡の前に並べてある物を全部、バッグの中に入れると、タオルを手に持って、エレベーターに乗って、人事部の部屋に戻って行った。そして、部屋の窓からぼんやりと、外の景色を眺めた。なんだか、生きている希望が、急に、全部無くなってしまった気がするな。おれは、心の中でそうつぶやいた。

2007.07.20 記事公開