2007年10月31日水曜日

土曜の午後 13 尋問

◆ 時間が過ぎて、そろそろ昼休みが近づいて来た頃、突然、人事課の人がおれを呼んだ。
「中山君、社長が君に話があるそうだ。すぐ、社長室に行ってくれ。」
人事課の人の緊張した面持ちから、おれはただならぬものを感じた。なんでだ。おれは今まで、一度も社長と会った事が無いし、社長もおれの事は何も知らないはずなのに。急にどうしたんだ。わけの分からないまま、おれはエレベーターに乗って社長室に向かった。もしかして、あの人事部長の秘密の会議をおれが盗み聞きしていた事が、社長に伝わってしまったのだろうか。

おどおどしながらドアを開けると、入り口の秘書の部屋は、以前とはがらりと様子が変わってしまっていて、部屋の奥のドアのすぐそばには立派な車椅子が置いてあって、その横では、白衣を着た二人の若い男が、退屈そうに椅子に腰掛けていた。その服装から、どこかの病院のリハビリの担当者である事が、すぐに分かった。社長はあの車椅子に乗って、二人の病院の職員に付き添われて、今日、ここにやって来たのだ。 恐る恐るおれは、部屋の奥のドアをノックした。しばらくしてドアが開くと、目の前に現れたのは、あのまぼろしの謎の女、じゃなくて、人事部長だったが、なぜか、眼鏡を掛けていない。化粧室を出て行った時は、眼鏡を掛けていたはずだったが。
「社長にきちんと礼をしてから、机の前の椅子に腰掛けるのよっ。」
人事部長は心配そうにおれの顔を見ながら、小声でそっと言った。
「中山です。失礼します。」
おれは、開いたドアの前に立って挨拶をすると、部屋の中に入ってドアを閉めた。部屋の奥の窓際には大きな社長の机があって、その向こうの大きな椅子に、はじめて見る社長が腰掛けていた。社長は青白い顔の白髪の男で、大きなぎょろりとした目で、おれをにらみつけた。こ、これは。おれは、思わず息を飲んだ。こんなでかいつらをしたおっさんは、生まれて初めて見た。それにしてもまるで、鬼のようないかつい顔をしている。こんなおっかない人と、よくこの会社の役員たちは付き合っていられるな。まるで、地獄のえんま様の前に引っ張り出された罪人のように、おれは社長の机の真ん前の椅子に腰掛けて、小さくなっていた。部屋の中は、社長と人事部長とおれの三人だけだった。ほかの役員たちは、用が終わってさっさと帰って行ってしまったみたいだ。
「おい。ちょっと、この部屋から出ていろ。」
社長が、すぐそばに立っていた人事部長の方を向いて、うなるような声で言うと、人事部長は黙って部屋から出て行った。わっ、唯一、頼りにしていた人がいなくなってしまった。一体、これから、何が始まるんだ。と思っていると、社長は今度は、おれの方を向いて、
「おい、お前。ドアをロックしとけ。」
と、人事部長が出て行ったばかりのドアをあごで指した。
「は、はい。分かりました。」
おれは、おどおどしながら立ち上がると、あわてて部屋のドアをロックした。やれやれ、一体これから、何の尋問を始めるつもりなんだろうか。
しばらく、おれのようすをじっと見ていた白髪の社長は、
「君は、あちこちの営業所をいくつも回されて来たらしいな。」
と、ぶっきらぼうに言い放った。な、なんだ、この人。いきなり、かちんと来るような事を言って来るな。おれは、入社してから、二つしか営業所は回って来ていないぞ。それも、はじめに配属された営業所が、統合で閉鎖される事になったから、次の営業所に移ったのであって、実際は、一つの営業所にずっといたのと同じなのに、まるでおれが、まともな営業の仕事ができなくて、邪魔者扱いされて、あちこち回されて来たみたいな言い方じゃないか。むかっと来るのをこらえて、おれは黙っていた。すると、
「まあ、そんな事は、どうでもいい事だが。」
と、どうでもいい事なら、最初から言わなくたっていいじゃないか。いったい、おれに何が言いたいんだ、この人は。少しずつおれは、いら立って来た。すると、
「ところで君は、上司の許可無く、勝手に休みの日に、会社に出て来たりするのかね?」
と、突然、社長は、やや興奮した口調で話し出した。おれは、どきっとした。やっぱり、あの秘密の会議をおれが盗み聞きしていたのをとっちめるつもりだったのだ。困った。これは、とてつもなく長い尋問になるぞ。おれは、覚悟を決めた。
「いえ。今まで自分は、めったに、そう言うことはして来ませんでした。」
と、おれが口を開いて答えると、
「一度も無かったわけじゃ、ないだろう。」
と、社長は目をぎょろりとさせながら、興奮した面持ちで聞き返した。休みの日に勝手に会社に出て来る事なんて、誰だって、普通にやっているじゃないか。しつこいな、何だか。おれは、困った。もういい。はっきりと答えれば、いいんだろ。
「一度だけ、連休の合間の土曜日の午後二時少し前に、上司の許可無く、無断で第九営業所に出勤しました。」
と、おれが正直に答えると、社長は、不意を突かれたかのように、一瞬、うろたえたようすを見せたが、すぐに、
「上司が知らない間に、部下が勝手に休みの日に、会社に出て来る事を、君はどう思うかね。」
と、再び聞き返した。
「あまり、好ましい事ではないと思います。」
と、おれが答えると、社長はやや、拍子抜けしたようすで、しばらくぽかんとしていた。そして少しずつ、呆れたような表情に変わって行った。もしかしておれが、骨の無い、優柔不断な人間に見えたのだろうか。
「分かった。わざわざ呼び出して、すまなかったな。さ、もう、自分の仕事場に帰ってくれ。あ、それから、人事部長を呼んでくれんか。隣の部屋で待っているはずだ。」
しばらくして、大きな顔の社長が突然、そう言ったので、おれは、ちょっと驚いた。もう、帰っていいのか。尋問と言うほどのものでもなかったな。立ち上がって、社長に礼をすると、おれはドアのロックをはずして社長室を出た。そして、隣の秘書の部屋で待っていた人事部長を呼んだ。いつの間にか昼休みが、ほとんど終わりかけていた。おれは急いで地下一階の食堂に行くと、すっかりがら空きになったテーブルでラーメンを食べた。そして、食べ終わると、人事課の部屋に帰って行った。
何のためにさっき呼び出されたのか、未だにさっぱり分からない。大して何もしつこく聞かれなかったし。おれがどんな人間なのか、会って確かめたかっただけなのだろうか。そうしたら、思っていたほどはみ出したやつでもなかったので、さっさと帰された。たぶん、そんな事なのだろう。
何もする事が無かったおれは、人事課の部長室の入り口のすぐ近くの自分の席で、ずーっとぼんやりとしていたが、いつまでたっても、部長は戻って来なかった。とうとう六時になったので、おれはタイムカードを押して帰宅した。

◆ 次の日、会社に出勤すると、部長は会社には来ていなかった。一体、どこで、何をしているのだろうか。部長がいないと、何の仕事をしたらいいのか分からないのだが。おれは少し、困ってしまった。いつまでたっても、部長は姿を見せず、そのうち昼休みになった。ひょっとして、このまま今日は出て来ないのだろうか。それにしても、何の仕事の指示もおれに伝わって来ないなんて、何だかちょっと変だな。だんだん、少しずつ、変な予感がし始めた。
午後の五時頃になって、やっとおれに電話が来た。人事部長からだった。
「突然だけど、あなたはあすから三週間、会社を休んでもらう事になったの。」
「え、また、それは、どう言うことなんですか。」
おれは驚いた。
「だいじょうぶ。あなたの今月の給料は一切、減らないから。それから、有給休暇の日数も全然、減らないから安心して。三週間の間、どこか遠くに旅行に出かけて行ってくれてもいいのよ。その間、会社からは何も呼び出す事は無いから、のんびりとしていて。」
「一体、なんでそうなったのか、理由がよく分からないんですが、おれのせいですか?」
「え、何のこと言ってるの?あ、そうか。いろいろとあなたに迷惑をかけてしまったから、という事よ。だから、安心して、ゆっくり休んでいて。」
と言うことで、電話が切れた。何かあわててかけて来た感じだった。電話が終わるとすぐ、人事課の人がおれのところに来て、三週間が過ぎた後の最初の月曜日の朝九時に、必ず会社に出て来ているように、と念を押された。

六時になるとおれは、タイムカードを押して会社を出た。突然、長い休暇をもらったおれは、まだ、何の仕事も任されていなかったからか、人事課の人たちは、まるでおれの事など構っていない様子だった。何だか、なるべく遠くの方に行っていてほしいような言い方だったな。ひょっとして、このおれが邪魔になって来たのだろうか。だんだんおれは、不安になって来た。ここに来てから、わけの分からない事で振り回されっぱなしだな。営業所にいた時の方がよかった。
一体、どうして、こういう事になったのか。これから先、自分がどうなって行くのか。急に分からなくなったおれは、不安で、とてもどこかへ旅行に行くような気にはなれなかった。それに、そんな金も無いし。しかたが無い。どこか景色のいい所を探してドライブか、サイクリングにでも行くか。あ、そうだ。海へ釣りをしに行くのがいいな。釣りなら、三週間の間、毎日やっていても飽きないだろう。それがいい。おれは、そう決めた。

2007.10.24 記事公開