2007年10月31日水曜日

土曜の午後 10 土曜の午後

◆ 次の日の朝、九時少し前におれは第九営業所へ出勤した。入り口の鍵を開けて中に入ると、窓際の自分の席に腰掛けて、おじさんたちが出勤して来るのを待った。やはり、思っていた通り、九時を過ぎてもなかなか、人はやって来ない。九時半頃になってやっと、自転車のおじさんが入って来た。
「おはようございます。」
と、おれが声をかけると、さっさと出勤簿に出勤時間を書き込んだおじさんは、そのまま黙って自分の席まで行って、椅子に腰掛けると、かばんの中から文庫本を取り出して、さっそく昨日の続きを読み始めた。まったく、マイペースな人だな。ところで、ここでは、朝のあいさつはやらないのか?そう言えば、昨日、帰る時も、誰も何のあいさつもしないで、皆、黙って帰って行ったな。
それからしばらくたって、ぽつりぽつりと、ほかのおじさんたちが出勤して来たが、何だかペースがのろい。昨日と同じ顔ぶれがやっとそろった時には、とっくに十時を過ぎていた。何ともけじめの無い職場だ。いつまで、こんな所の管理人をやらされるのだろうか。あの人たちは、二、三週間もしたらここを出て行ってしまうのだから、気にならないのかも知らないが、おれはこれからずっと、毎週毎週、入れ替わっては入って来るおじさんたちの番をしていなくてはいけないのだ。だんだんと気が重くなって来たおれは、机の上のカレンダーをじっと見つめていた。そして、もう少ししたら春の連休がやって来る事に、やっと気がついた。連休になったら、どこか思いっきり遠くに行って、気分を発散して来よう。だが、連休が終わって、またここに戻って来た時の事を考えると、やっぱり気が重い・・・。
しばらく、ぼんやりと考え込んでいると、そのうち、炊事場の方からにぎやかな笑い声が聞こえて来た。おや、おじさんたちが、珍しく、何か楽しそうに話をしているぞ。何なんだろう。と思っていると、そのうち、仕事場の中にコーヒーの香りが漂って来て、コーヒーカップを手にした数人の人たちが、満足そうな顔をして、それぞれの席に戻って来た。そうか。ここは、女子社員がいないから、あの人たちは炊事場まで行って自分でお湯を沸かして、コーヒーを入れて飲んでいるのだ。ところで、ほかの人たちは、コーヒーは飲まないのか?と思って見ていると、少したってから、今度は別の人たちが、ぱらぱらと立ち上がって、やはり炊事場に向かって行く。そして、しばらくすると、お茶の入った湯飲み茶碗を手にして、自分の席に帰って来た。あの人たちは、お茶が飲みたかったのか。いろいろと、好みが違うな。
そのうち、昼休みの時間が近づいて来た。そう言えば、この人たちは、昼食はどこで食べるのだろうか。たぶん、本社の地下一階の食堂には行かないだろうから、近くのそば屋かラーメン屋にでも出かけて行くのだろう。と思っていると、十二時のチャイムが鳴っても、誰も外に出て行こうとしない。しばらくすると、あちらこちらの席の人たちが、かばんの中から弁当箱を取り出して、弁当を開けて食べ始めた。そうか。外に食べに出ると、本社の社員たちとどこかで顔を合わせてしまうから、この人たちは皆、家で弁当を作ってもらって来て、ここで食べているのだ。何となく、気の毒な気がして来た。

◆ とにかく、昼休みの時間だけは、ここを離れさせてもらうぞ。おれは立ち上がると、第九営業所を出て、本社の食堂に出かけて行った。ところが、地下一階の食堂は、とんでもないくらい長い行列が出来てしまっていた。一目見て、並ぶ気がしなくなったおれは、隣の売店でパンと飲み物を買うと、食堂の一番奥のテーブルがガラ空きになっているのを見つけて、そこに行って、ひとりぽつんとパンを食べ始めた。すると、そのうちどやどやっと、おいしそうな食事の載ったトレイを持った女子社員たちがやって来て、たちまちのうちに、おれの周りの席は女たちによって埋め尽くされてしまった。
「結局、社長の秘書って、決まらなかったの?」
「そうみたい。これからは、専務の部屋が、社長室の代わりになるみたいよ。」
と、いきなり話を始めたので、おれは、どきっとした。こいつら、もしかして、昨日の昼休みに、あの社長室の隣のトイレに化粧直しにやって来たやつらか?
「と言うことは、社長室はあのまま空き部屋になるわけ?もったいないわね。」
「だったら、経理課の部屋にしちゃえばいいじゃない?」
「しーっ。」
と、そこで女たちは急に黙って、静かに昼食を食べ始めた。おれが、すぐ隣で聞いているので、話をやめたんだな。なんだか、ここの食堂も居づらい所だ。
昼食を終えて本社ビルを出たおれは、しばらく町の中をぶらぶらと回ってから、一時少し前に第九営業所へ戻って来た。おじさんたちは、誰も外には出なかったみたいで、相変わらず、お互いに黙ったままで、お茶やコーヒーを飲んでいたり、音楽を聴いていたり、中には携帯テレビを見ている人もいた。そして、一時のチャイムが鳴ってしばらくすると、おじさんたちはまた、午前中にやっていた事の続きをそれぞれやり始めた。そしておれは、机の上のカレンダーをじっと見つめながら、今度の連休をどうやって過ごそうかと再び考え始めた。だが、やはり連休が終わって、ここに戻って来てからの事を考えると、気が重くなって来て、いつまでたっても何も考えがまとまらない。どんどん時間が過ぎて行って、午後五時頃になると、また、昨日と同じようにぽつり、ぽつりとおじさんたちが帰り始めて、五時半頃には、自転車のおじさん以外は皆、帰ってしまった。
六時になって、最後までいた人が自転車に乗って帰って行くのを見届けたおれは、そのまま入り口のすぐ近くのソファに、どっと倒れるように腰掛けた。そしてぼんやりと、誰もいなくなった机の列を眺めたその時、たちまちのうちに、ちょうど一年前の連休の合間の土曜日の午後のあの時の出来事が、頭の中に甦って来た。もしかしたら、今度の連休の間の土曜日の午後二時になったら、ひょっとしたら、あの人がここにやって来るかも知れない。そんな思いが、突然、湧き上がって来た。何だか、そんな気がする。

◆ 連休の真っ最中の土曜日に、本社の上司に無断で営業所に出てくる事を考え始めたおれは、なぜか、心が落ち着かなくなった。もし、今度の連休にここに出てくる事にしたら、それは上司に命じられたからではなく、仕事をするために出て来たのでもなく、自分の勝手な行動でしかない。こんな事、やってもいいのだろうか。何となく、不安になって来た。それから毎日が過ぎて行って、やがて、連休がやって来た。
落ち着かない気持ちのままで連休の前半を過ごしたおれは、いよいよ、土曜日を迎えた。おれは、午後二時少し前に、第九営業所に入った。入り口の鍵を開けて、中に入った時、何か、やってはいけない事を自分がやっているような気がして来て、妙に怖くなった。部屋の電灯をつけて、窓際の自分の机の所まで来たおれは、留守電が何件か入っている事に、すぐ気がついた。こんな暇な仕事場に、連休の最中に電話がかかって来たなんて、何か変だぞ。おれはすぐに、留守電の記録を再生してみた。すると留守電は、今日の昼少し前から何度も繰り返しかかって来ていて、伝言は何も入っていなかった。これは明らかに、この仕事場に今日は誰も人が来ていない事を確かめるための電話だ。おれはそう直感した。もしかして、誰かがそのうち、ここに何かをしにやって来るのだろうか。おれは怖くなった。やっぱり今日は、ここに来るべきではなかったのだ。今すぐ、ここを出て行かなければ・・・。
おれは急いで、電話を留守番モードに戻すと、部屋の電灯を全部消して、入り口を出ようとした。ところが、窓のブラインドの隙間から外を見ると、何と、あの眼鏡を掛けた女の人事部長がこちらにやって来るところだった。何て事だ。さては、連休の合間に、ここで秘密の役員会議でもやるつもりだったのか。だめだ。もう、逃げ出すわけにはいかない。この部屋の中のどこかで、じっと隠れているしかない。まさか、こんな事になってしまうとは。
おれは、あわてて入り口のドアを中からロックすると、部屋の一番奥の席の机の下に、急いで隠れた。

2007.07.15 記事公開