2007年10月31日水曜日

土曜の午後 11 秘密の会議

◆ 机の下に身を隠すとすぐ、入り口の鍵を開ける音が聞こえ、そして、ドアが開いて、誰かが中に入って来た。入り口を少し入ったところで足音は止まった。おや、電灯のスイッチはつけないのだろうか。窓には全部、ブラインドが掛かっているから、このままでは部屋の中が暗いと思うが。しばらくたつと、再びドアの開く音と、別の誰かが入って来る足音が聞こえた。
「お待たせしました。」
と、男の声が聞こえるとすぐ、
「どうぞ、そちらにお掛けください。」
と、女の声が聞こえた。人事部長と誰かとが、机をはさんで向かい合って何かを始めるようだ。
「長い間、ご苦労さまでした。」
と、人事部長が言うと、
「いや、別に大した事は何もしてませんよ。」
と、男が答えた。
「それで、どんなようすでしたか。」
と、人事部長が聞くと、男はしばらく考え込んでいるようだったが、やがて、
「そこの列の四番目の人は、相変わらずいつも、一番遅れてやって来て、一番先に帰って行ってしまうな。」
な、なんだ、これは。あの男、ここに毎日通っているおじさんたちのうちの誰かなのか。もしかして、あの自転車に乗って通って来るおじさん?まさか。一日中、わき目もふらずに文庫本を読んでいるとばかり思っていたら、実は、しっかりとほかの人たちの様子を観察していたのか。要するに、人事部長のスパイだったわけだ。
「あの人は、連休が明けたらもう、ここへは来ないわ。もしかしたら、会社を辞めるつもりでいるのかも知れない。」
「と言うことは、専務とはつながりは無いわけか。」
「そう言うことね。」
なんだと。ここに通っているおじさんたちのうちの誰が、専務の側についているのかを判定する会議だったのか、これは。ところで、専務って社長の実の弟じゃないのか。確か、前の営業所にいた時、先輩たちがそんな話をしていたような。そうそう。社長が病気持ちなので、しょっちゅう、社長の仕事をあの人が代理してやっているはずなんだ。しかし、それがどうかしたのだろうか。
「それから、その列の二番目とあの列の三番目、そしてそこの列の一番目。この三人は必ず、十一時少し前と三時少し前に、一緒にコーヒーを入れに、炊事場に出て行く。」
「その三人は、専務とは全くかかわりの無い人たちよ。」
「そして、その三人が戻って来ると、すぐにお茶を入れに出て行くやつが、ざっと四、五人はいる。」
「それは?」
「まず、その列のそこの席のやつ。それから、あそことあそこ。それから、あそこ。いつも、席を立つ順番が決まっているんだな。」
「間違いなく、専務の回し者ね。でも、そこの席の人も仲間に入っていたとは、意外だったわ。」
そうか。だんだん、分かって来たぞ。あの昼間のおじさんたち、猫をかぶっているけれど、実は皆、この会社の重要な役職を経験して来た人たちなのだ。だから、あの人たちがこれから、もといた仕事場に復帰した時、社長の側につくか、専務の側につくかで、この会社の先行きが変わって行ってしまう。なるほど、そう言う事だったのか。
「それから、実は・・・。」
と、そこで男の口調が少し変わった。
「あの若い管理人が、昼休みに昼食を食べにここを出て行った後、必ず、あの窓際の席にやって来て、机の上に置いてある書類を全部、デジカメで撮っているやつがいる。みんな、見て見ぬふりをしているけどね。」
何だって。誰なんだ、そいつは。
「一体、誰なの。そいつは?」
と、そこで急に二人の会話の声が小さくなって、何を話しているのかが聞き取れなくなってしまった。

◆ それからだいぶ時間が過ぎて、
「それでは、これで失礼します。ここに来る事はたぶん、もう無いでしょう。」
「本当にご苦労さまでした。」
と言うことで、やっと長い秘密の会議が終わって、男が入り口から出て行った。やれやれ、やっと終わったか。おっと、まだあの人事部長が残っているぞ。早く、ここから出て行ってくれないかな。と思っていると、床の上を横切って行く足音が聞こえた。どこへ行くのだろう。どうも、窓際のおれの机の方に歩いて行ったみたいだが。何かまだ、他にやる事があったのか?と思っていると、
「メッセージは、ありまっせん。」
と、電話機から声が聞こえた。
「変ねえ・・・。」
と、人事部長が何かぶつぶつ言っている。何か、どうかしたのだろうか。あ、もしかして。そうか、昼の間にかかって来ていた留守電は、全部、あの人事部長がかけていたのか。しまった。おれがいったん、留守番モードを解除して、留守電を全部、再生してしまったから、きっとその時、留守電の記録が全部消えてしまったんだ。という事は・・・。これは、とんでもなくやばい事になりそうな予感が・・・。
「誰か、ここに来たのかしら。」
今度は、さっきよりずっとはっきりと、部長の声が聞こえた。部長は、大急ぎで入り口まで走って行くと、部屋の全部の電灯のスイッチをつけた。突然、部屋の中が照明に照らし出されたように明るくなった。
「誰かいるのっ?!」
悲鳴のような部長の声が響いた。もうだめだ。おれは観念した。それから、ほんの少したって、
「そこにいるのは、だれなのっ!」
と、まるで雷が落ちたような叫び声が聞こえた。とうとう、見つかってしまったようだ。おれの人生も、これでついに終わったか。おれは、すべてをあきらめて、机の下から這い出すと、
「申しわけありませんでした。」
と、人事部長に向かって頭を下げた。

◆ 「あなただったの・・・。」
机の後ろから立ち上がったおれを見て、人事部長は一瞬、言葉を失った。が、すぐ次の瞬間、
「ここに来なさいっ。」
と、叱りつけるような声が響き渡った。人事部長の全身が、怒りで震えているのが分かった。これは、ひょっとすると、おれがこの会社を辞めさせられる、というだけでは済まないような事になるのかも。おれは、言われる通り、部長の立っているすぐ目の前の席に、神妙になって腰掛けた。
「いったい、誰からの指図で、こんな事をやったの?」
人事部長は、向かい側の席にゆっくりと腰掛けると、おれをにらみつけるようにして言った。
「こんな事」って、おれは別に、何も変な事をやってはいないんだけど。それに、指図って、何の事だ。部長の言う事が、何の事なのかよく理解できなかったおれは、
「あ、あの。たまたま、偶然、ちょっと用があって、ここに寄ってみただけなんです、が。」
と、ついつい、適当なことを言ってしまうと、
「うそでしょう。」
と、人事部長は恐ろしい目つきで、再びおれをにらみつけた。これじゃあ、まるで、大蛇ににらみつけられた蛙と同じだな。と言うか、どうやらおれが、専務の手先に回っている、と、完全に疑われているみたいだな、これは。
「いや、本当なんです。おれは、今日、まったく何も知らないで、ここに来たんですよ。」
と、おれは、悲しげに言い訳をしたが、
「だったら、どうして隠れたりするの?」
と、追い詰める人事部長の言葉に、もはや何も弁解が出来なくなってしまった。分からない。そんな事、聞かれたって。とっさに、隠れようと、勝手に体が動いてしまったのであって、そんな事、言葉では説明できない。ああ、どうしたらいいのだろうか。もはやおれは、完全に、頭の中の思考が止まってしまっていた。いつの間にか人事部長は、半分、あきれたような表情で、おれの方を見つめていた。どうやら、おれが、どうにも融通のきかないバカなやつだと、決めつけられてしまったみたいだ。
長い沈黙の時間が続いた後、突然、人事部長は立ち上がって言った。
「分かったわ。今日の事は、もう、何も無かったことにしてあげましょう。」
意外なことばに、思わずおれは内心、ほっとした。すると、
「その代わり・・・」
と言って、再び部長はおれの顔をじっと見つめた。
「罰として、連休明けから毎日、本社のトイレ掃除をひとりで全部、地下一階から最上階まで、一日中やっていてもらいましょう。ま、いずれにしても、ここの営業所の管理の仕事は、もう、あなたに任せるわけには行かなくなったわ。」
「わ、分かりました。どうも、いろいろと、ご迷惑をおかけしました。」
と、おれはすぐに立ち上がると、人事部長に頭を下げ、そして、持っていた営業所の鍵を渡した。
「さ、もう帰って。」
「はい。」
おれは人事部長に礼をすると、急いで営業所を出て、真っ直ぐ、地下鉄の駅に向かって足早に歩いて行った。思いもよらない、とんでもない悪夢の中に突き落とされてしまったおれは、頭の中が真っ白になったままで、家に帰って行った。

◆ 連休の残りの期間、おれはずっと家の中にこもったままで、呆然となってうなだれていた。そして次第に、腹の底から怒りが湧き上がって来た。おれは何も、悪い事なんかやっていない。どうして、犯罪者のように扱われなきゃいけないのだ。いつか必ず、仕返しをしてやる。いまに見ていろ・・・。

2007.07.18 記事公開