2007年10月31日水曜日

土曜の午後 15 消えたまぼろし

◆ 急にやって来た三週間の休暇がとうとう終わって、月曜日、おれは久しぶりに会社に出勤した。人事課の部屋に来てみると、部長はやはりいなかった。やがて、九時の始業の時刻になると、すぐ、人事課の人に呼ばれた。おれは人事課の人と一緒に、誰もいない部長室の中に入ると、ソファに向かい合って腰掛けた。
「じつは、部長は、先週の金曜日で会社を辞めたんだ。」
「えっ?」
おれは驚いた。休暇が終わったら、自分がこの会社を辞めさせられるものだとばかり思っていたのに。そのために、おれに三週間の休みをくれたんじゃなかったのか。しばらく、沈黙が続いた。
ひょっとして・・・。一昨日の土曜日の午後に、あの海辺の海水浴場の駐車場で偶然見かけた、あの、顔も声も部長にそっくりだった女の人、あれはやっぱり部長だったのか。そうか。ちょうどその前の日の金曜日に、この会社を辞める事ができて、やっと長い束縛から開放されたので、恋人と二人きりで船で旅に出かけるために、あそこの桟橋にやって来たのだ。おれって、本当に勘が鈍いな。部長は、実は、ずっと前からこの会社を辞めるつもりでいたのだ。ようやく、納得が行くようになったおれの様子を見て、人事課の人が再び話を続けた。
「それで今週は、実は急いでやらないといけない仕事がたくさんあるんだ。まず、社長室の中を片づけて、残っている書類を全部、分類して整理しないといけない。」
やっぱり、あの社長室はもう、無くなるのか。やっとおれは、分かって来た。今まで、あの人事部長がいたから、空室同然だった社長室がずっと残っていたのだ。もう、あの社長が、会社に出てくる事は無いと言うことなのだろう。と言うことは、おれが社長に突然呼び出されたあの日は、社長がこの会社に出て来た最後の日だったという事なのか。おれが、呆然としていると、
「それじゃあ、とにかく、すぐ社長室に行って、一緒に作業を手伝ってくれ。」
と言われて、おれは、はっとして、あわててエレベーターで社長室に向かった。

◆ 社長室の手前の秘書の部屋に入ると、奥のドアが開いていて、ドアの向こうの社長の部屋で、人事課の人たちが机の上に山のように積み上げたたくさんの書類を仕分けしているところだった。さっそくおれは、中に入って仕事を手伝った。
「思っていたよりも、早く辞めたね、あの人。」
しばらくして、誰かが口を開いた。
「あと二、三年はいるのかと思ったけどね。」
と、別の人が答えた。
「急に辞めたけど、何かあったのか?」
「さあ。」
どうやら、人事課の人たちも、あの部長がそんなに長くこの会社にいるとは、思っていなかったみたいだが、それにしても、急に辞めてしまった事には、驚いているみたいだ。もしかしておれが、あの第九営業所の秘密の会議を盗聴してしまったからなのだろうか。おれがやった事のために、あの部長は、この会社にこれ以上居続ける事ができなくなってしまったのだろうか。あの女の部長が一体、どう言う人だったのか、ほとんど何も知らなかったおれは、周りの人に少しずつ、辞めた部長の事を聞いてみた。どうやら、本社の人たちにとっても、あの部長は、謎の人物だったみたいだが、ここに至るまでのいきさつは、だいたい次のような事だった。

先代の社長の長男で、この会社の後継者であったあの社長は、社長の地位を継ぐだいぶ前に病を患い、相当長い間、仕事から離れて療養生活を送っていた。そして、やっと体が回復し、本社に帰って来た時には、以前の部下たちは自分から離れて行ってしまっていて、本社に居る事が次第に苦しくなって来た。それで、ある時、自ら希望して、ある寂れた地方の出張所に単身赴任で出向いて行った。そして、そこである若い女性を見つけ、出張所の社員として採用したのだった。 それからしばらくして、先代の社長が急死し、出張所にいた社長は、新しい社長として再び本社に戻って来たが、その時、その女性を自分の秘書として、連れて来たのだった。おかしな事だが、社長がいた当時のそこの出張所の社員たちは、その後、様々な理由で次々と退職して行って、その女性がやって来たころの当時のいきさつを知っているのは、社長以外には誰もいなくなってしまっていた。
ところが、本社に戻って来た社長は、急に責任の重い立場についたせいか、再び病状が悪化し、入退院を繰り返すようになった。そして、ある時突然、社長は会社の重役たちの反対を押し切って、自分の秘書だった女性を強引にも本社の人事部長にしてしまったのだ。
実は、これらの事は皆、ごく最近あった出来事だった。社長が、地方の出張所から戻って来たのは、去年の春で、おれがあの連休の合間の土曜日の午後に、あの謎の女性と初めて出会った、そのすぐ後だった。そして、新しい社長を迎えた後に、全社的な人事があって、その時おれも、営業所を変わったのだった。それから、社長の秘書だったその女性が人事部長になったのは、まだ今年に入ってからの事で、それからほんの少したって、おれが突然、本社に人事異動で来ることになったのだった。
「あの人に会いたかったら、自宅に行ってみればいいんじゃないの。」
おれが、部長の事をいろいろと聞くので、一人の人がそう言うと、
「いや、きっともう、どこか遠くに出かけて、いなくなっているよ。さっそくもう、携帯電話が通じなくなっているし。」
と、別の人が答えた。

◆ やっと昼休みの時間になると、ほかの人たちは皆、あわてて地下一階の食堂に向かって飛び出して行ったが、おれは、食堂に行く気にはなれなかった。誰もいなくなった社長室の窓から、おれは、周りの町の様子を眺めた。すぐ近くに、あの第九営業所の建物が見えた。
去年の春、初めて出会ったあの人は、この本社に来てからずっと、この社長室の隣のあの秘書の部屋に、毎日、通っていたのだろうか。そして、土曜日は会社が休みの日だったから、土曜日の午後になると、おれのいる所に、訪ねて来てくれたのだろうか。いや、もう、その事を考えるのはやめよう。これでもうすべて、終わってしまったのだから。おれはそう、心の中で自分に言い聞かせた。

終わり