2007年10月31日水曜日

土曜の午後 8 社長室

◆ それから月日が過ぎて行って、会社の年度の節目が近づいて来たある日のこと。営業所で、突然おれは、所長に呼び出された。知らないうちにまた何か、へまでも仕出かしていたのだろうか。おれは、びくびくしながら所長室に入った。
「どうだ。元気でやっているか。」
部屋に入ると、所長が声をかけた。
「は、元気でやっております。」
「そうか。そこに座れ。」
と言われて、向かい側のソファに腰掛けると、所長はじっとおれの顔を見つめてから言った。
「今月末をもって君は、人事異動となった。」
え?どこへ?おれは驚いた。それにしても、今月ももう下旬だと言うのに、こんな事がいきなり来るものなのか。と思っていると、所長はおれの顔を心配そうに眺めながら続けた。
「来月から君は、本社に勤務してもらう事になった。」
意外だった。自分のような人間が、本社に勤務するなんて、今まで、考えた事も無かった。
「本社で、何を担当するんでしょうか。」
「まったく分からん。」と、所長は言った。
「君は来月一日の午前九時に本社に行って、そこで、本社の人事部長と面接をする事になっている。何を担当する事になるのかは、そこで決まるらしい。」
話が終わって、おれは所長室を出た。何だか、足が床についていないような感じがした。それはともかく、急いで今までやっていた仕事の引継ぎをしないといけない。あと、一週間とちょっとしか残っていないのだから。

◆ それから一週間とちょっとの間になんとか仕事の引継ぎが終わって、いよいよ月が替わった一日、おれは朝、はじめて本社に出かけた。本社ビルに着くと、さっそく、人事部人事課に行った。すると、出て来た人事課の人が、部長は今日は昼過ぎまで会議なので、最上階の社長室で待機していてくれと言う。何でいきなり、社長室に行かされるんだ?
言われた通り、エレベーターで最上階の社長室に行くと、入り口のドアをノックしたが、何の返事も無かった。取っ手を回すとドアが開いた。ロックはしてなかった。部屋の中はがらんとしていて、部屋の奥にもう一つのドアがある。もしかして、あのドアの向こうが本当の社長室なのか。と言うことは、あの隣の部屋に今、うちの会社の社長がいるという事か。おれは緊張した。
それから時間がたっていったが、隣の部屋からは何の物音も聞こえて来なかった。どうやら、誰もいないみたいだ。社長は今、どこかに出かけているのだろうか。きっと、人事部長が出席しているという会議に社長も出ているのだろう。
ところでトイレは、どこに行けばいいんだ?しばらくして、おれはふと思った。部屋の中にはトイレも無ければ、水道の蛇口も無い。そう言えば、どこでお湯を沸かせばいいんだ?これじゃ、コーヒーも飲めないし、カップラーメンも食べられない。あ、そう言えば・・・。と、そこでおれは、やっと気がついた。社長に来客があった時にお茶を出す、接待係の女の子がいないじゃないか。いったい、どうなっているんだ、ここは。
とにかくまず、トイレがどこにあるのかを確かめるのが先だ。そう思って、部屋を出て廊下をあちこち見回してみたら、すぐ近くにトイレがあった。ところが行ってみると、男子トイレなのか女子トイレなのか、どこにも何も表示がない。誰も中には入っていないみたいなので、ちょっとのぞいて見ると、これがすごい。観音開きの扉を開けると、手洗い場の鏡が実に立派。中は洋式のトイレが四つか五つ並んでいる。ここってもともと、女子トイレだったのか?と言うか、女の秘書が化粧をするために使う所なのだろうか。まあ、いい。社長室のすぐ隣にあるのだから、おれが使っても、誰も文句は言わないだろう。だいたい、この階には今、おれ以外には誰もいないんじゃないのか、ひょっとして。さっきから全然、周りに人の気配がしないんだが。部屋に戻ろうと思ってトイレを出たおれは、すぐ近くに簡単な調理場があるのに気がついた。ここでお湯が沸かせるのか。おれは、部屋に戻った。気持ちが落ち着いて来たおれは、部屋の隅に一つだけ置いてある机の前に行くと、ゆったりとした椅子に腰掛けた。
昼の十二時になったので、おれは地下一階の社員食堂に行こうと思って、部屋を出て、エレベーターの前まで行った。ところが、どれだけ待っても、エレベーターが上がって来ない。そうか。昼休みになったばかりなので、エレベーターが満員なのか。と言うことは、階段を下りて行った方が早いのだな。やっと分かったおれは、非常口から階段を下り始めた。そうしたら、すぐ一つ下の階まで下りたところで、その階の仕事場から出てきたおじさんたちとばったりと出会った。いきなり、
「おやっ。社長の秘書か、あんたは?」
と言われて、おれはびっくりして立ち止まった。すると、別の人から、
「売店でパンを買って、すぐ戻って来た方がいいぞ。」
と言われたので、おれはあわてて、
「あ、分かりました。」
とか、答えると、階段を駆け下りて行った。そしたら何と、地下一階の食堂は長い行列ができていて、最後尾が階段の途中まで来ていた。これはひどい。さっきのおじさんに言われた通りにした方がよさそうだ。おれは、食堂の隣の売店でパンと飲み物を買うとすぐ、最上階の社長室まで戻って行った。

◆ ところで、隣の社長室への出入り口は、ほかにもあるのだろうか。昼食を終えたおれは、ふと気になって部屋を出て、廊下をあちこち回ってみたが、ほかには社長室への入り口らしいものは、見当たらなかった。
あ、そうだ。きょうはまだ、朝からうんちをしていなかったのだった。と、トイレの横を通り過ぎた時に、突然、おれは思い出した。午後の勤務時間が始まったら、さっそく社長が会議から戻って来るかも知れない。今のうちに、無理してでも出しておいた方がいいかも。と、思いつつ、おれはさっきのトイレの中に入って行った。ところがこれが、出そうで、ちっとも出ない。便座に腰掛けたまま、じーっとしていると、そのうち、外から人の気配がして来た。な、なんと、若い女たちが、ひそひそ話しをしながら、トイレの中に入って来る。こ、これは、まずい事になった。おれはじっと、息をこらした。
「しーっ、誰か入ってる?」
「誰も入ってるわけないでしょ。」
「そうよねっ。」
と言うことで、どうやら、鏡の前で化粧直しを始めたようだ。そうか。あいつら、いつも、昼食が終わったらここへ来て、化粧をしているのか。たぶん、すぐ下の階の経理課の女たちだな。と、思っていると、
「社長の秘書が今度、来たみたいね。」
「え、うそでしょ。」
「また社長室を待合室に使ってるだけよ。」
「あ、そうだったのか。」
と、そこで急に女たちの声が小さくなって、まったく、何を話しているのか聞き取れなくなってしまった。しばらくして、女たちがそっとトイレから出て行くのが分かった。
あいつらの今の話は何だったんだ・・・。すっかり、うんちを出す気分ではなくなったおれは、すぐにトイレを出て部屋に戻ると、机に向かって腰掛けたまま、じっと考え込んだ。なんか、変な所だな、ここは。初日から早々、おれは、先月までいた営業所に戻りたい気持ちになった。

2007.06.24 記事公開