2007年10月31日水曜日

土曜の午後 7 鏡

◆ そして、また一週間が過ぎて、土曜日の朝がやって来た。空は晴れていた。が、何となくおれは気が重かった。今日はいよいよ、鏡の実験をするのだが、自分が思っていたのとは違ったことが起こったりはしないだろうか、と妙におれは不安になっていた。先週、あの人は女のカメラマンと一緒に、車が一台も走っていない国道の上で写真を撮っていた。たとえば、もしあそこに、突然、車が現れたりしたら、あの二人は、国道を走って行く車に次々とはねられてしまったかも知れない。さて、どうしようか。おれはしばらく考え込んだ。
結局、きょう、あの二人が、いったいどこへ写真を撮りに行くかによるのだ。先週と同じように国道の上で写真を撮っているのなら、鏡の実験をやるのは危険だ。しかし、もっと安全な場所に行くのだったら、鏡の実験をやってみてもいいかも。

◆ 午後二時が近づくと、先週と同じように、おれは車に乗って家を出て、デザインスタジオから少し離れた所で車を停めた。しばらくすると、先週と同じように車庫のシャッターが開いて、ワンボックスの車が出て行った。先週と同じように、おれは車の後を追った。ワンボックスの車は、きょうは町の中心部に向かって走って行って、駅の裏通りの狭い路地に入って、そこで停まった。おれは少し離れた所に自分の車を停めようと思ったが、このあたりはどこも路上駐車禁止の区域になっていて、安心して車を停めておけるような場所がどこにも無い。困った。最初から想定外の事態になってしまった。やむをえん。きょうに限っては、五分か十分おきにでも車に戻って来ては、車を少しずつ移動するしかない。同じ場所にずっと停めておいたら、そのうちレッカー車でどこかに持って行かれそうだ。
しばらく考えてそうする事に決めたおれは、車のドアを押してみた。するとドアは、少し開きかけるとすぐまた閉まった。今、この近くのどこかにあの人がいると言うことだ。だから今、このドアは、別の世界への入り口になっているのだ。そう考えたおれは、自分の背中をドアに向けて後ろ向きになってドアを押してみた。すると、車のドアは、何事も無かったかのようにすんなりと開いた。おれはそっと、車の外に出た。周りはどこにも人影が無かった。
さてまず、あの二人が今、どこで写真を撮っているのか見つけないといけない。それからすぐ、またここまで戻って来て、車を少し移動させないと。おれは急いで二人を捜しに出かけた。たぶん、駅前の広場にいるんじゃないのか。なんとなく、そんな気がした。駅前の広場は唯一の待ち合わせの場所で、いつも大勢の人たちが集まっている。晴れた昼間に人がいない事はあり得ない場所で、人がいない写真を撮ろうと思ったら、あそこしかないはずだ。おれは急いで駅前広場に行ってみた。思った通りだった。ほかに誰も人がいない広場で、あの人と女のカメラマンが、勢いよく噴き出している噴水をバックに、たくさんの鳩に囲まれながら、夢中で写真を撮り続けている。よし、分かった。きょうは三時までずっと、あそこで写真を撮っているつもりだな。ではさっそく、鏡の実験を始めるか。
おれは急いで裏通りに停めておいた自分の車まで走って戻って来ると、ドアを開けようとしたが、いくら引っ張ってもドアが開かない。おっと、そうだった。ドアを出入りする時は、いちいち後ろ向きになって開けないといけないのだった。はっと思い出したおれは、自分の背中をドアに向け、後ろ向きになってドアを引いた。ドアはすんなりと開いた。急いで車に乗り込んで、ドアを閉めたとたんに、後ろの方から別の車の警笛が聞こえた。邪魔だからすぐ退け、と言っているんだな。おれは、あわててエンジンをかけ、車を少し離れた別の場所まで動かすと、そこで再び、車を停めた。さて、いよいよ、本当に実験を始めることになってしまった。おれは恐る恐る、持って来た鏡を取り出した。

◆ 待て待て。もう一度、今、ドアの外が別の世界になっているのかどうかを確かめてみないと。周りに車の行き来が途絶えたのを見計らって、おれはまたドアを押してみたが、ドアは開きかけるとすぐ閉まった。確かに今、外は別の世界になっている。よし。やるなら今だ。おれは決心すると、片手で鏡を持ち、車のドアに自分の背中を向け、後ろ向きになったまま、鏡に写ったドアの前方を見ながらゆっくりとドアを押した。ドアが開いた瞬間に、自分が今まで聞いたことの無いような音が聞こえた。何の音だろうか。
おれは、ゆっくりとドアの外に出た。周りには人影は無かった。あの二人はちゃんと今、生きているだろうか。急に不安になったおれは、急いで、全力で駅前広場まで走って行った。途中、路上にはどこにも人影が無かった。

◆ あ、いた。さっきと、何も変わってない。あわてて駅前の広場まで戻って来てみると、あの二人は、さっきと同じように写真を撮り続けている。周りには、ほかにどこにも人影が無い。車のドアを開けた時に、変な音が聞こえたが、別に何でもなかったのか。しばらくぼんやりと考えているうちに、あ、また車に戻らないといけない、と、おれは思い出した。こんな事を繰り返していたら、そのうち何が何だかわけが分からなくなって来てしまうな。そう思いながら、再び車に戻ろうとしたおれは、いつの間にか空が暗くなって来ている事にやっとその時、気がついた。と、その瞬間、
「ゴロゴロゴロッ。」
と、空全体に稲妻が走って、ものすごい音がとどろき渡った。あっと言う間に、あたりはどしゃ降りの大雨になった。あの二人は、と思って広場の方を振り返ったおれは、驚いた。さっきまで、何事も無かったかのように広場のあちらこちらで写真のポーズをとっていたあの人が、倒れている。そして女のカメラマンが、必死になってあの人を起き上がらせようとしている。今、雷が鳴った時に倒れたのか。いや、そうじゃない。さっき、おれが鏡を見ながら車のドアを開けたあの時に、あの人に何かが起きたのだ。これは、大変な事になってしまった。どうしたらいいんだ。おれの頭の中が、一ぺんに真っ白になった。 女のカメラマンは、倒れたあの人を雨の当たらない場所に運ぼうとしているみたいだったが、あの小さな細い体では、そんな力ははじめから無い。雨がどんどん激しくなると、とうとうあの人を残して、どこかに走り去って行ってしまった。と、その直後、
「ドッシーン。」
と、ものすごい音が響き渡って、あの人の倒れているすぐ近くの並木に雷が落ちた。その時、あの人の体が転がるのが見えた。
どうなったんだ。おれはあわてて、雷が落ちた場所に走って行った。ものすごい豪雨で、ほんの数メートル先も見えないくらいになって来た。焦げ臭いにおいの漂うあたりを必死になって捜してみたが、あの人の姿はどこにも無かった。どこへ消えて行ってしまったんだ?時計を見ると、まだ二時半にもなっていない。土曜日の午後三時までは、人間の姿でいられるんじゃなかったのか。分からない。何がどうなったのか、さっぱり。あ、そうだった。今のうちに、車に戻らないと。雨がやんだら、レッカー車に持って行かれてしまうぞ。はっと思い出したおれは、あわてて車を停めておいた場所へ走って行った。
車のドアを開けて、急いで運転席に腰掛けると、車のドアを閉めた。不思議な事に、おれが車の中に戻ってドアを閉めるとすぐに、どしゃ降りだった雨がさっと小降りになった。と、そのとたん、後ろの方から車の警笛が聞こえた。また、退け、と言っているんだな。おれはあわててエンジンをかけると、車を動かし始めた。そうだ。駅前の広場のようすが気になる。もし、あの人が倒れているのが見つかったら、今ごろ、大騒ぎになっているはずだ。
おれは、急いで車で駅前広場に向かった。雨が上がった広場には、たくさんの人たちがいたが、何の騒ぎも無く、救急車が来ているようすも無かった。やっぱりあの人は、本当に消えてしまったのだろうか。しかたがない。もう、ここには用は無くなった。おれはあきらめると、そのまま家に帰る事にした。雨上がりの道は、たくさんの車が行き来していた。
車を運転しているうちに、おれは、ある事に気づいた。この車に戻って来た時、後ろ向きにならずにドアを開けたな・・・。と言うことは、あの広場の並木に雷が落ちた時に、おれは元の世界に戻っていたと言うことなのか。

◆ 家に帰って来たおれは、日の当たる窓から町のようすを眺めた。長かった土曜日の午後のまぼろしが、これで終わったのだった。この時以来、あの人の姿を再び見ることは無かった。

2006.10.07 記事公開